関東大震災4
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1923年9月1日午前11時58分相模湾を震源地とするマグニチュ-ド7.9の大地震が発生した。震央は相模湾の北西部。家屋倒壊率の高かった地域は湘南地方、三浦半島、房総半島南部であるが、震災は東京を中心に千葉、埼玉、静岡、山梨、茨城、長野、栃木、群馬の各県に及んだ。 | 1923年9月1日午前11時58分相模湾を震源地とするマグニチュ-ド7.9の大地震が発生した。震央は相模湾の北西部。家屋倒壊率の高かった地域は湘南地方、三浦半島、房総半島南部であるが、震災は東京を中心に千葉、埼玉、静岡、山梨、茨城、長野、栃木、群馬の各県に及んだ。 | ||
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'''被害''' | '''被害''' | ||
死者・行方不明者は従来、約14万2000人余りとされてきたが、近年の調査研究で10万5000人程度であることが分かった。建物の被害は、全壊約13万棟、半壊約13万棟、焼失約45万棟。特に被害の大きかった東京では死者は6万人を超えたが、これは主に122ヶ所から発生した火災によるものとみられた。 | 死者・行方不明者は従来、約14万2000人余りとされてきたが、近年の調査研究で10万5000人程度であることが分かった。建物の被害は、全壊約13万棟、半壊約13万棟、焼失約45万棟。特に被害の大きかった東京では死者は6万人を超えたが、これは主に122ヶ所から発生した火災によるものとみられた。 | ||
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'''震災後の事件''' | '''震災後の事件''' | ||
1923年9月1日午後から2日にかけて「朝鮮人・社会主義者ら」の放火・投毒などの流言が広がり始めた。当時の治安担当者は内務大臣水野錬太郎・警視総監赤池濃・内務省警保局長後藤文夫らであった。彼らは流言を取り締まることなくこれを利用して、戒厳令の施行を決定した。戒厳令によって全国から出動してきた軍隊は、警察や自警団と一体となって朝鮮人・中国人を殺害したほか、労働運動指導者・社会主義者などを殺害した。極秘資料として20部だけ作成された「関東戒厳司令部詳報」第3巻には「震災警備の為兵器を使用せる事件調査表」があり合計20件に及ぶ朝鮮人・中国人殺害事件や亀戸事件などが記録されている。 | 1923年9月1日午後から2日にかけて「朝鮮人・社会主義者ら」の放火・投毒などの流言が広がり始めた。当時の治安担当者は内務大臣水野錬太郎・警視総監赤池濃・内務省警保局長後藤文夫らであった。彼らは流言を取り締まることなくこれを利用して、戒厳令の施行を決定した。戒厳令によって全国から出動してきた軍隊は、警察や自警団と一体となって朝鮮人・中国人を殺害したほか、労働運動指導者・社会主義者などを殺害した。極秘資料として20部だけ作成された「関東戒厳司令部詳報」第3巻には「震災警備の為兵器を使用せる事件調査表」があり合計20件に及ぶ朝鮮人・中国人殺害事件や亀戸事件などが記録されている。 | ||
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'''歴史的背景''' | '''歴史的背景''' | ||
第一次世界大戦後の日本は、対内的には、大正デモクラシー運動の高揚による民衆運動の組織化と、それに反発する右翼の台頭、原敬首相暗殺と元老山縣有朋の死を契機とする天皇制支配体制の動揺、戦後恐慌による打撃などを通じて、危機が深刻化していた。また、対外的には、ベルサイユ・ワシントン体制下における英米との対立の深化、朝鮮と中国の半日民族解放運動の激化、シベリア出兵も惨敗などにより国際的に孤立化しつつあった。こうした状況のもとに突発した関東大震災は、自然の大災害としてばかりではなく、経済、政治、社会の各方面に決定的な影響を与えた点に大きな歴史的意義があった。 | 第一次世界大戦後の日本は、対内的には、大正デモクラシー運動の高揚による民衆運動の組織化と、それに反発する右翼の台頭、原敬首相暗殺と元老山縣有朋の死を契機とする天皇制支配体制の動揺、戦後恐慌による打撃などを通じて、危機が深刻化していた。また、対外的には、ベルサイユ・ワシントン体制下における英米との対立の深化、朝鮮と中国の半日民族解放運動の激化、シベリア出兵も惨敗などにより国際的に孤立化しつつあった。こうした状況のもとに突発した関東大震災は、自然の大災害としてばかりではなく、経済、政治、社会の各方面に決定的な影響を与えた点に大きな歴史的意義があった。 |
2018年1月20日 (土) 08:02の版
関東大震災
概要
1923年9月1日午前11時58分相模湾を震源地とするマグニチュ-ド7.9の大地震が発生した。震央は相模湾の北西部。家屋倒壊率の高かった地域は湘南地方、三浦半島、房総半島南部であるが、震災は東京を中心に千葉、埼玉、静岡、山梨、茨城、長野、栃木、群馬の各県に及んだ。
被害
死者・行方不明者は従来、約14万2000人余りとされてきたが、近年の調査研究で10万5000人程度であることが分かった。建物の被害は、全壊約13万棟、半壊約13万棟、焼失約45万棟。特に被害の大きかった東京では死者は6万人を超えたが、これは主に122ヶ所から発生した火災によるものとみられた。
震災後の事件
1923年9月1日午後から2日にかけて「朝鮮人・社会主義者ら」の放火・投毒などの流言が広がり始めた。当時の治安担当者は内務大臣水野錬太郎・警視総監赤池濃・内務省警保局長後藤文夫らであった。彼らは流言を取り締まることなくこれを利用して、戒厳令の施行を決定した。戒厳令によって全国から出動してきた軍隊は、警察や自警団と一体となって朝鮮人・中国人を殺害したほか、労働運動指導者・社会主義者などを殺害した。極秘資料として20部だけ作成された「関東戒厳司令部詳報」第3巻には「震災警備の為兵器を使用せる事件調査表」があり合計20件に及ぶ朝鮮人・中国人殺害事件や亀戸事件などが記録されている。
歴史的背景
第一次世界大戦後の日本は、対内的には、大正デモクラシー運動の高揚による民衆運動の組織化と、それに反発する右翼の台頭、原敬首相暗殺と元老山縣有朋の死を契機とする天皇制支配体制の動揺、戦後恐慌による打撃などを通じて、危機が深刻化していた。また、対外的には、ベルサイユ・ワシントン体制下における英米との対立の深化、朝鮮と中国の半日民族解放運動の激化、シベリア出兵も惨敗などにより国際的に孤立化しつつあった。こうした状況のもとに突発した関東大震災は、自然の大災害としてばかりではなく、経済、政治、社会の各方面に決定的な影響を与えた点に大きな歴史的意義があった。