アフガン戦争15

出典: Jinkawiki

(版間での差分)

2018年1月25日 (木) 14:14の版

特に19世紀から20世紀頭に行われたアフガニスタンとイギリスの間でおこなわれた戦争のこと。アングロ・アフガン戦争ともいう。 19世紀に広げられた第一次と第二次のアフガン戦争はグレート・ゲームの一環として、中央アジアに進出したロシアがインドへと気持ちを伸ばしてくることを察したイギリスが、先手を打って勢力圏をアフガニスタンにとどまらせるために行った軍事の行動である。第二次アフガン戦争によってイギリスはアフガニスタンを保護国としたのだ。アフガン戦争は狭義にはこの二度の戦争のことをいうのだ。第三次アフガン戦争は第一次世界大戦のすぐあとに行われた争いでアフガニスタンがイギリス領のインド帝国に攻め込んで独立を認めさせた戦争である。

ロシアを警戒したイギリスがアフガニスタンを侵略し、カーブルを独占するが、反英闘争が起こりイギリス軍は撤退したのだ。1837年にイランのカージャール朝軍がロシアの援助を受けてアフガニスタンの西部を侵略したことに危機感を持ったイギリスが、1838年にインド軍を送り、カーブルに加わる。これによってイランにアフガニスタンの独立を認めさせた。しかしイギリス兵がアフガン女性への暴行事件などが増え、1841年、激しい反英活動が起こり、イギリス軍が撤退する。その途中でインド兵、一般人を含むイギリス軍が、アフガン軍勢力より全滅するという敗北をした。42年にはイギリス軍が捕虜を奪い返すのために再出兵し、カーブルを崩壊させた。 その後、ロシアは1853年のクリミア戦争に敗北、イギリスは1857年のインド大反乱などインドでの民族抵抗に手こずっため、一時的に両国ともアフガニスタンに力を入れることができなかった。ロシアは中央アジアに勢力を拡大し始め、中央アジアのブハラ、ヒヴァ、コーカンド三国を占拠し始め、さらに1877年からオスマン帝国との露土戦争を始めたのだ。   イギリスがアフガニスタンを保護国とした戦争である。1878年にはロシアがアフガン王国に軍事同盟を要求し、イギリスはカーブルへの外交使節の常駐を求めた。アフガン王国がそれを断ったことを理由に、イギリス軍は再度インドから軍を進出させ、アフガニスタンに侵攻した。1879年、アフガン王国は外交権をイギリスに譲渡し保護国となった。しかし、アフガン兵の反乱部隊にイギリス使節団がやられる事態となり、イギリスはただちに報復のため増兵した。ところが1880年7月のマイワンドの戦いでアフガン軍に敗れる結果となった。本国ではグラッドストーン自由党内閣に代わって撤退を指示、イギリスは再びの敗北となった。その後、イギリスはアフガニスタンの直接統治を諦め、ロシア、イランとの国境交渉をしていく。1904年の日露戦争でロシアが日本に敗れたことで、ロシアとイギリスの話し合いが進み、1907年に英露協商が成り立ちロシアはアフガニスタンをイギリスの勢力圏と認め、さらに第一次世界大戦中にロシア革命が勃発し、ロシアが崩れたため、アフガニスタンをめぐるイギリスとロシアの対立は終結したのだ。

 第1次、第2次のアフガン戦争でイギリスの保護国とされたアフガン王国が、1919年にイギリス軍と戦い、独立を承認させた戦争。アフガン王国はイギリスが第一次世界大戦後での疲労がたまり、インドの独立運動で苦況にあることに乗じて、インドに侵攻し、1ヶ月にわたる戦闘の結果、会談を成立させた。1919年8月にアフガニスタンの外交権回復をイギリスが認め、アフガニスタンが独立国であることが国際的にも認められていったのだった。  しかし、アフガン王国の念願であったインド領のパシュトゥーン人居住地域の領有は認められず、第二次世界大戦後はパキスタンとの間で対立が起きる。イギリスが戦闘では敗北したわけではないがアフガンニスタンの独立を認めたのは、当時インド国内の独立運動が激しくなっており、財政的にも苦しくなっていたので、インド植民地の維持を優先させる必要があったのだ。

参考文献 http://www.y-history.net/appendix/wh1301-064.html


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