チャウシェスク
出典: Jinkawiki
2008年7月29日 (火) 15:27の版
==ニコラエ・チャウシェスク== ルーマニアの政治家・独裁者。1974年から大統領を務める。ルーマニア共産党書記長・国家評議会議長を兼任。89年の民主化運動の中で逮捕・処刑される。
==チャウシェスク政権==
1965年ルーマニア共産党書記長に就任。1965年国家評議会議長となる。1974年大統領となる。東欧でありながら、ソ連や東ドイツなどの東側諸国から距離を置き西側諸国との関係を強化し国民の支持を得る。例えば、東側諸国が多くボイコットした1984年のロサンゼルスオリンピックへの参加や、ソ連の行動批判などがある。
==独裁化==
国民からの高い人気を得ていたが、チャウシェスクの生活は一般国民とはあまりにもかけ離れた優雅なものであった。さらに、国内の経済については正しい情報を把握していなかったといわれている。首都ブカレストに国民の館と呼ばれる世界で2番目の大きさを誇る宮殿を建築したり、国家の要職などをチャウシェスクの親族で固めるなどの独裁的な政策で国民の心は離れていった。
==ルーマニア革命==
国民の生活水準を低下させるような経済政策を取っていたため、国民の不満は高まっていた。さらに、監視や言語統制していたが、東欧諸国の共産党政権が次々倒れているという情報が入り、民主化の機運が高まっていった。1989年12月16日治安警察(セクリタリア)がデモ隊に発泡したのをきっかけに、ルーマニア全土にデモが拡大する。チャウシェスクと妻のエレナは逃亡するも、逮捕され銃殺刑にされた。
==チャウシェスクの子どもたち==
ルーマニア政府は労働力を増やすために避妊と堕胎手術を禁止し、女性は4人以上子どもを生むことを推奨した。ところが、国民は貧しい生活をしていたため、子どもを育てることができず、大量のストリートチルドレン(チャウシェスクの子どもたち)を生むことになった。この子どもたちは町をさまよい飢え死にするか、シチリアなどのマフィアやその周辺の大人たちに売りさばかれることとなった。 オタム