シベリア出兵
出典: Jinkawiki
2018年1月27日 (土) 12:21の版 Daijiten2014 (ノート | 投稿記録) ← 前の差分へ |
2018年1月27日 (土) 12:35の版 Daijiten2014 (ノート | 投稿記録) 次の差分へ → |
||
3 行 | 3 行 | ||
‐概要‐ | ‐概要‐ | ||
- | 1917年に勃発したロシア革命。共産主義勢力の拡大に対して翌年8月、反革命軍救出を名目に極東ロシアへ出兵し、シベリア中部のバイカル湖畔まで占領。しかし、ロシア人の傀儡政権は機能せず、パルチザンや赤軍に敗退を重ねる。 | + | 1917年に勃発したロシア革命。共産主義勢力の拡大に対して翌年8月、反革命軍救出を名目に極東ロシアへ出兵し、シベリア中部のバイカル湖畔まで占領。しかし、ロシア人の傀儡政権は機能せず、パルチザンや赤軍に敗退を重ねる。 |
もともとシベリア出兵は、イギリスやフランスが第一次世界大戦で勝利するために思いついた、大戦下の補助的作戦に過ぎなかった。その後日本など各国を巻き込んだことで二転三転してゆく。結局日本は出兵した国々の中で最長の期間シベリアに居座り、最多数の兵士を送り込むことになった。シベリアからは1921年10月に撤兵したが、北サハリンから撤兵するのは1925年で、出兵は7年間におよんだ。 | もともとシベリア出兵は、イギリスやフランスが第一次世界大戦で勝利するために思いついた、大戦下の補助的作戦に過ぎなかった。その後日本など各国を巻き込んだことで二転三転してゆく。結局日本は出兵した国々の中で最長の期間シベリアに居座り、最多数の兵士を送り込むことになった。シベリアからは1921年10月に撤兵したが、北サハリンから撤兵するのは1925年で、出兵は7年間におよんだ。 | ||
13 行 | 13 行 | ||
2つ目は、当初は軍事的には成功したが、日清戦争や日露戦争のように、国家間で講和条約を結び撤兵へと導くことができなかったこと。日本はソヴィエト政府を国家として認めずに出兵を始めたので、そもそも交渉相手となる国家がなかった。また、戦争ではないという建前なので、講和条約ではなく撤兵の協定を結ぶのが精一杯だった。その上、各国との共同出兵であるために単独での撤兵ははばかられた。 | 2つ目は、当初は軍事的には成功したが、日清戦争や日露戦争のように、国家間で講和条約を結び撤兵へと導くことができなかったこと。日本はソヴィエト政府を国家として認めずに出兵を始めたので、そもそも交渉相手となる国家がなかった。また、戦争ではないという建前なので、講和条約ではなく撤兵の協定を結ぶのが精一杯だった。その上、各国との共同出兵であるために単独での撤兵ははばかられた。 | ||
3つ目は、出兵しても何も得ずでは撤兵できないという指導者たちの負い目である。また、兵士たちの死を無駄にする、犠牲者に背を向けることはできないのである。これらの考えが、出兵をいたずらに長引かせた。 | 3つ目は、出兵しても何も得ずでは撤兵できないという指導者たちの負い目である。また、兵士たちの死を無駄にする、犠牲者に背を向けることはできないのである。これらの考えが、出兵をいたずらに長引かせた。 | ||
+ | |||
参考文献 | 参考文献 | ||
+ | |||
麻田雅文(2016)『シベリア出兵』中央公論新社 | 麻田雅文(2016)『シベリア出兵』中央公論新社 | ||
http://honcierge.jp/articles/shelf_story/4836 | http://honcierge.jp/articles/shelf_story/4836 |
2018年1月27日 (土) 12:35の版
シベリア出兵
‐概要‐
1917年に勃発したロシア革命。共産主義勢力の拡大に対して翌年8月、反革命軍救出を名目に極東ロシアへ出兵し、シベリア中部のバイカル湖畔まで占領。しかし、ロシア人の傀儡政権は機能せず、パルチザンや赤軍に敗退を重ねる。 もともとシベリア出兵は、イギリスやフランスが第一次世界大戦で勝利するために思いついた、大戦下の補助的作戦に過ぎなかった。その後日本など各国を巻き込んだことで二転三転してゆく。結局日本は出兵した国々の中で最長の期間シベリアに居座り、最多数の兵士を送り込むことになった。シベリアからは1921年10月に撤兵したが、北サハリンから撤兵するのは1925年で、出兵は7年間におよんだ。
‐なぜ出兵は7年も続いたのか‐
多大な人命と財貨を費やしながら得るものの少なかったシベリア出兵。ではなぜ、7年も続く長期戦になってしまったのか。出兵を始めたのは寺内正毅内閣だが、開始早々に出兵に反対する原敬が首相に就任した。しかし、首相となった原も完全な撤廃を成し遂げられなかった。その原因は3つ考えられる。 1つ目は、戦前の日本における軍隊を指揮する命令系統にある。「統帥権の独立」により、軍に命令する権限は政府から切り離されていたこと。この法制度のもとで、原首相がシベリア出兵を抑制しようとすること自体大きな挑戦であった。 2つ目は、当初は軍事的には成功したが、日清戦争や日露戦争のように、国家間で講和条約を結び撤兵へと導くことができなかったこと。日本はソヴィエト政府を国家として認めずに出兵を始めたので、そもそも交渉相手となる国家がなかった。また、戦争ではないという建前なので、講和条約ではなく撤兵の協定を結ぶのが精一杯だった。その上、各国との共同出兵であるために単独での撤兵ははばかられた。 3つ目は、出兵しても何も得ずでは撤兵できないという指導者たちの負い目である。また、兵士たちの死を無駄にする、犠牲者に背を向けることはできないのである。これらの考えが、出兵をいたずらに長引かせた。
参考文献
麻田雅文(2016)『シベリア出兵』中央公論新社