国際競争力
出典: Jinkawiki
2018年1月27日 (土) 13:29の版
《国際競争力とは》 個別の製品(商品)の競争力、企業としての競争力、産業としての競争力、国の競争力など様々なレベルで使われる言葉である。スイスの国際経営開発研(IMD)では毎年「国際競争力ランキング」を発表しているが、これは国レベルの「国際競争力指標」によるものである。このランキングは、あくまでも企業が利益をあげ成長するための投資環境の条件、企業のためのビジネス環境を国別に順位付けしたものである。つまりそれは個々の企業にとって、どの国が競争力を発揮できる条件が整っているか、の指標であり、必ずしも国民が幸せに暮らすための国づくりの指標を順位付けしたものではない。
《日本の国際競争力とIMD》 このIMDのランキングは、日本財界が「国際競争力」を問題にするときに、つねに引き合いに出す“データ”となっている。日本経団連が2010年4月に発表した「新成長戦略2010」でも、日本の「国際競争力」の低下を嘆いている。それによると、日本は90年代初頭まではトップであったが、その後急速に後退し、2002年に30位、2006年に17位と巻き返しを見せるも、2010年には再び27位に下がっている。上の項目で、このランキングは国民が幸せに暮らすための国づくりの指標の順位ではないと説明したが、政府による「経済財政白書」(2010年版)は、IMDの「国際競争力指標」をもとに分析したところ、「ビジネスを遂行しやすい国は、一般には、むしろ生活の満足度やその質も高くなる傾向がある」などとも主張している。
《日本における「国際競争力」が意味するもの》 第二次世界大戦後、1949年に日本で第一回目の「通商白書」が刊行されてから、2010年版までの62冊の中で、毎回を通して「日本企業の国際競争力」をいかに強化するかが最大のテーマとなっている。しかし、同じ「国際競争力」といっても、その理論的意味や定義、制作的力点の捉え方は時代によって大きく変化し、発展してきているといえる。『通商白書』の「国際競争力」についての 記述の内容でそれらを図ることができる。
①1950年代後半〜1960年代前半・・・輸出を経済成長最大のエンジンと位置づけて、輸出競争力をいかにして強化するか、その理論的、制作的な検討に集中していた時期であった。「輸出競争力」のなかでも「価格競争」こそが「国際競争力」の内実であることを強調し、その規定を日本の経済成長の実態分析で計量的に実証することによって理論化しようとしていた。通産省や財界の調査機関や日本経済調査協議会など、官民が一体となって、国際競争力=輸出競争力=価格競争力と規定して、輸出商品の「価格競争力」の定量的分析をおこない、その強化に取り組んでいた。
②1960年代後半〜1970年代後半・・・高度成長期の後半ごろから、日本の「国際競争力」の強化によって、世界市場で集中豪雨的な輸出が増大し、対米国、対欧州との貿易摩擦が激化し、政治問題化するようになった。1970年代の『通商白書』では、それまでのように輸出競争力の強化を一面的に強調する議論にかわって、輸出とともに輸入の増大を制作的に重視する記述が増えた。『通商白書』の国際競争力の規定も、それに伴う形で変化が見られ、「輸入競争力」という新しい概念が登場してきた。
③1980年代〜・・・「国際競争力」を構成する要素には、「価格競争力」とともに、品質やデザインなどの「非価格競争力」があることは戦後初期から指摘されていたが、まだ高度成長期の頃は「国際競争力」の中心的要素はあくまでも「価格競争力」であった。しかし、貿易摩擦が激化し、為替レートの急激な調整によって円高が進むようになり、1985年のプラザ合意によって円高が急進すると、いっせいに「非価格競争力」が日本産業の「国際競争力」の中心として位置付けられるようになった。「国際競争力」の力点が「価格」面から「非価格」面へと移り始めるにつれて、「国際競争力」規定の“曖昧さ”が為替レートの変動による「価格競争力」の不安定さに加えて、それを定量化してとらえにくくなってしまった。
④1990年代〜2000年代・・・『通商白書』の「国際競争力論」は、「イノベーション競争」を重視する規定が始まった。理由としては、日本の大企業の海外進出、対外投資が急増してきたために、従来の輸出競争力中心の「国際競争力論」では現実の対外関係を分析できなくなり、「国際競争力」の規定自体を貿易と投資を含む広い概念に発展させる必要があったことがあげられる。
参考図書
友寄英隆箸「「国際競争力」とは何か」かもがわ出版(2011)