説教師ヤン・フス
出典: Jinkawiki
2018年1月27日 (土) 14:28の版
説教師ヤン・フス
ヤン・フス 一三七〇年頃にチェコ南部のフシネツで生まれたと推定されている。哲学や神学を学んだ後、神学教授になる。数々の危険な主張をしたが、自分はキリスト教徒として誤っていないとの立場を貫いた。一四一五年七月六日、フスは矯正不可能な異端者と断定され、コンスタンツ郊外に設けられた火刑台でその生涯を閉じる。
フスの見解 フスは、キリスト教徒が最終的に頼るべき規範は聖書である。教皇の権威は絶対ではない。教皇の言うことが聖書に照らして間違っているならば、自由にこれを批判して良いのだ。と述べた。こうした発言の背景には、当時のカトリック教会がローマとアヴィニヨンに分裂しており、本来の職務よりも権力闘争と資金稼ぎに明け暮れてたという事情があったからだ。
フス派戦争 フス処刑の報せに、チェコにいたフスの支持者たちはより一層結束力を持ち、貴族たちは抗議文をコンスタンツに送りつけた。そして一四一九年に国王ヴァーツラフ四世が急死すると、フス派は貴族を中心に結集し、ついにプラハで政権を握った。過激な異端者集団が政権を握ってしまったチェコを見て、周辺諸国こ人々は恐れた。翌年、教皇は異端討伐のために欧州諸国から集めた軍隊をチェコに送り込み、戦争が始まった。この戦争をフス派戦争という。
戦争による影響 フス派戦争による影響は多大であった。 ・国土の荒廃 ・人口の減少(プラハの人口は約四万人から三万人いかにまで減少したといわれる) ・国王の権力と教会の地位の失墜 一方、この戦争で利益を得た者もいた。それは貴族であり、社会の混乱を利用して国王や教会の土地財産を奪い取り、広大な所領を支配した。
参考資料
チェコとスロヴァキア 薩摩秀登 河出書房新社
チェコとスロヴァキア 歴史と現在 大鷹節子 サイマル出版会