インドの独立
出典: Jinkawiki
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ガンディー: | ガンディー: | ||
- | ・南アフリカで民族運動→インドへ | + | 南アフリカで民族運動→インドへ |
- | ・「非暴力・非服従」の運動(古代インドの「不殺生」の思想との関連) | + | 「非暴力・非服従」の運動(古代インドの「不殺生」の思想との関連) |
ネルー: | ネルー: | ||
- | ・西欧の価値観が強い環境で育った | + | 西欧の価値観が強い環境で育った |
- | ・ガンディーとともに民族運動を担い会議派の指導者に | + | ガンディーとともに民族運動を担い会議派の指導者に |
ジンナー: | ジンナー: | ||
- | ・少数派ムスリムの指導者として最初は国民会議派と連携 | + | 少数派ムスリムの指導者として最初は国民会議派と連携 |
- | ・ガンジーと運動方針をめぐり対立。 | + | ガンジーと運動方針をめぐり対立。 |
ムスリム連盟の組織を再建。国民会議派主導の運動に対抗 | ムスリム連盟の組織を再建。国民会議派主導の運動に対抗 | ||
- | ・1940年「二民族論」を展開、ムスリム国家建国を目標にかかげた | + | 1940年「二民族論」を展開、ムスリム国家建国を目標にかかげた |
独立の追い風を受けてインドは大きく動き出すことになった。しかし、それは分離独立という独立という形をとることになる。 | 独立の追い風を受けてインドは大きく動き出すことになった。しかし、それは分離独立という独立という形をとることになる。 |
2018年2月22日 (木) 18:14の版
インドの独立
ムガル帝国滅亡後のインドは、1877年にイギリス領インド帝国となり、インドを統治するための総督府が置かれた。イギリスのヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ね、その下で本国から派遣されたインド総督が、強大な権力を振るい、行政機構が整えられ、約3億人ものインド人を、6万人ほどのイギリス人の官僚たちが支配した。
イギリス統治下のインドでは、茶、ジュート・綿花等、商品作物の生産が増えた。これらを加工するために、機械化された工場が建設され、産業も発展していく。商品は欧米やアジアに向けて輸出され、通信や運輸の基盤も整えられた。
港と農業生産地を結ぶ鉄道が建設され、イギリスはインド人への高等教育に力を入れ、エリート層も育っていく。こうした中から民族運動が始まったのである。 第一次大戦後、インドでは民族独立運動が激しさを増すことになる。そして、この運動にはガンディー、ネルー、ジンナーと、3人の重要人物が登場する。
ガンディー: 南アフリカで民族運動→インドへ 「非暴力・非服従」の運動(古代インドの「不殺生」の思想との関連)
ネルー: 西欧の価値観が強い環境で育った ガンディーとともに民族運動を担い会議派の指導者に
ジンナー: 少数派ムスリムの指導者として最初は国民会議派と連携 ガンジーと運動方針をめぐり対立。 ムスリム連盟の組織を再建。国民会議派主導の運動に対抗 1940年「二民族論」を展開、ムスリム国家建国を目標にかかげた
独立の追い風を受けてインドは大きく動き出すことになった。しかし、それは分離独立という独立という形をとることになる。
独立インドの姿をめぐって、ネルーとジンナーは大きく対立していた。国民会議派ネルーの描いた独立インドは、植民地インドの11の州を強固な中央政府のもとに統一し、さらに藩王国も取り込み、一つの独立インドを作るというものであった。 他方で、ジンナーの要求は、イスラーム教徒が多数を占める地域を他から切り離し、パキスタンという独立国家を作るというものである。
指導者たちはこの計画を受諾。国境線を引く責任者には、インドには縁もゆかりもないロンドンの弁護士が当たり、彼は統計資料だけをたよりに赤い線を引いた。こうして、そこに住む人々の文化や生活とは無関係に、新しい国境線が作られたのである。
1947年8月14日。まず、東西パキスタンが独立した。翌8月15日、インドが独立。
この分割独立に伴って、ヒンドゥー教徒はインドへ、イスラーム教徒はパキスタンへと一斉に移住し始めたのである。
参考文献 世界史の窓 http://www.y-history.net/appendix/wh1601-122.html
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