チベット問題2

出典: Jinkawiki

(版間での差分)

2019年1月18日 (金) 01:12の版

1980年代、中国が改革開放路線を採り、チベットへの経済進出が強まった結果、貧富の差が拡大、チベット人の反発が強まった。1989年、2008年には大規模な独立を求める民衆の蜂起が起こった。政治・宗教上の指導者ダライ=ラマ14世は亡命が続く中、国際的な支援を求めて活動している。

 チベットは、1750年に清の藩部となってから中国の支配を受けたが、清朝の崩壊を受けて1913年には事実上の独立を果たした。しかし中国で中華人民共和国が成立すると、1951年に中国政府軍が進駐し、中国支配が復活した。現在はチベット人は中国を構成する多民族の一つとされ、1965年からはチベット(西蔵)自治区として自治が認められている。チベット人は自治区以外の青海省、四川省、甘粛省、雲南省などにも広く分布している。 → 中国の少数民族

~1959年 チベットの反乱~ 1959年3月10日、中国からの完全な自治を求めるチベットの反乱が起き、宗教指導者ダライ=ラマ14世はインドに亡命し、亡命政府を樹立した。中国軍は3月までにチベットの反乱を鎮定し、ダライ=ラマはチベットに戻ることができなくなり、現在も亡命を続けている。これを契機に中国とインドの関係が悪化し、1962年には中印国境紛争が勃発し、中国軍は戦闘を優位に進め、カシミール地方の実効支配を続けているが、なおも問題は継続している。

~1965年 チベットの自治と文化大革命~ 中国はチベットの分離独立運動を抑えるために、1965年にチベットを自治区として大幅な自治を認めた。これは「民族区域自治」の原則に立ったもので、モンゴル人の内モンゴル自治区、ウイグル人の新疆ウイグル自治区、回族の寧夏回族自治区、チワン人の広西チワン族自治区とならぶ、一自治区である。自治区はそれぞれ自治行政政府を持ち、省と同等の自治権を有するが、あくまで中国国家の枠内での自治体に過ぎない。国家としての独立を認められなかったチベット人の独立を求める運動は国内では厳しく取り締まられ、国外のダライ=ラマが国際世論に訴える形となっていった。1970~80年代、中国で文化大革命が始まると、その伝統文化否定の運動はチベットにも及び、多くの文化遺産が破壊された。

~1989年 ラサ暴動~ 中国の文化大革命が収束し、1980年代から鄧小平政権政権が改革開放路線に転換してからチベットでも経済自由化を進めたが、かえって中国人の経済的進出が活発となり、現地のチベット人は経済的に不利な立場におかれて不満が高まっていった。1989年にはラサで暴動が起こり、戒厳令が出された。その時自治区の党書記であったのは胡錦涛であった。本国の中国ではその年、天安門事件(第2次)が起こったが、鄧小平政権は本土においても、チベットにおいても、政治的自由や言論の自由などの人権を認めず、弾圧した。

~チベット問題の深刻化~ 亡命中のダライ=ラマ14世は世界各国で中国のチベットに対する弾圧を批判し、自治拡大(表面だって独立を訴えることはしなかった)を訴えた。それに対して1990年、ノーベル平和賞が与えられると、中国当局は強く反発し、様々な規制を強めた。 1995年にはチベットで転生が承認されたパンチェン=ラマを中国当局が家族ごと拉致し、別に中国当局の選んだ同年齢・同村出身の少年に置き換えた。この新パンチェン=ラマは現在も中国当局に保護され、ダライ=ラマに代わるチベットの象徴として扱われている。


<参考文献> チベット問題を読み解く 大井功 祥伝社新書


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