森鷗外

出典: Jinkawiki

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2008年8月2日 (土) 00:28の版

明治の文豪。本名・森林太郎。別号、観潮楼主人、千朶山房など。 軍医(陸軍軍医総監:階級としては中将に相当)、帝室博物館総長兼図書頭(ずしょのかみ)、小説家、評論家、翻訳家。特に、安楽死を題材にした高瀬舟が有名である。なお森鴎外の「鷗」の旁は、正確には「区」ではなく「區」。1862年2月17日石見国鹿足郡津和野町(現・島根県鹿足郡津和野)生まれ。1922年7月9日没。享年60歳。


概要

鴎外は自らが専門とした文学・医学、両分野において論争が絶えない人物であった。文学においては理想や理念など主観的なものを描くべきだとする理想主義を掲げ、事物や現象を客観的に描くべきだとする写実主義的な没理想を掲げる坪内逍遥と衝突する。また医学においては近代の西洋医学を旨とし、和漢方医と激烈な論争を繰り広げたこともある。和漢方医が7割以上を占めていた当時の医学界は、ドイツ医学界のような学問において業績を上げた学者に不遇であり、日本の医学の進歩を妨げている、大卒の医者を増やすべきだ、などと批判する。松本良順など近代医学の始祖と呼ばれている長老などと6年ほど論争を続けた。しかし鴎外が寄稿する論文の多くはドイツなどの論文の広範な引用が多く、文章のレトリックや学問的な裏付けに拘るばかりで、臨床医学の実質からは乖離したものと言われ、当時の医学界からは最初から相手にされていなかったとも言われる。 また、鴎外の言いがかりとも思える論争癖を発端として論争が起きた事もある。坪内逍遥が「早稲田文学」にシェークスピアの評釈に関して加えた短い説明に対し、批判的な評を『しがらみ草子』に載せたことから論争が始まった。このような形で鴎外が関わってきた論争は「戦闘的評論」や「戦闘的啓蒙」などと評される。 教師でもあった漱石のように弟子を取ったり、文壇で党派を作ったりはしなかった。ドイツに4年留学した鴎外は、閉鎖的で縛られたような人間関係を好まず、西洋風の社交的なサロンの雰囲気を好んでいたとされる。官吏生活の合間も、書斎にこもらず、文芸雑誌を主宰したり、自宅で観潮楼歌会を開いたりして色々な人々と交際した。そうした生活を送り、日清・日露戦争に出征しながら、文学以外も含めて膨大な著作を残している。 なお、近年の鴎外評のキーワードとしては、「女性論」(金子幸代)、「近代日本観」(池辺健次)、「文化の翻訳」(長島要一)などが挙げられる。


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