箏‐こと‐
出典: Jinkawiki
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1921(大正10)年、筝曲演奏家で作曲家でもある宮城道雄によって創造された。大合奏の作品に対する必要性から低温を担当する箏として発明された。全長約210センチの大きな胴に太い弦が17本張られている。 | 1921(大正10)年、筝曲演奏家で作曲家でもある宮城道雄によって創造された。大合奏の作品に対する必要性から低温を担当する箏として発明された。全長約210センチの大きな胴に太い弦が17本張られている。 | ||
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+ | '''二十弦''' |
2020年1月25日 (土) 16:30の版
箏
まだ楽器の種類が少なかった古代日本、弦をはじいて音を出す楽器をすべて「コト」と呼んでいた。よって、古代の代表てきな楽器である和琴、中国から伝わった琴(箏)箜篌、それに琵琶も、すべてコトの仲間であると考えられていた。そのため平安時代には、琴は「きんのこと」、琵琶は「びわのこと」という名前で区別されていた。また、箏は「そうのこと」と表現されていた。箏と琴はどちらも「コト」と呼ぶことが可能であり、現在では「琴」で両方の楽器を表している。箏は中国から伝来した楽器であり琴と形状が似ているが、琴と違って弦の間に「柱」を立てて音を調節するという点である。今日、私たちがよく目にするのはほとんどが十三弦の箏であるが、大正時代には十七弦や二十弦といったものが作られており、西洋楽器との合奏お行われていた。
発展
筝で演奏される音楽は「筝曲」と呼ばれる。筝はもともと雅楽の演奏だけに用いられていたが、平安時代ごろになると独立した楽器として広まるようになった。その後十七世紀に入ってから、九州に「筑紫筝(つくしごと)」と呼ばれる一派が興り、それが当時音楽家として最高の位にあった八橋検校(やつはしけんぎょう)に伝わり、筝曲の基礎である「俗筝」が生みだされた。八橋検校は筑紫筝をもとに「六段の調」をはじめとする多くの筝曲を作曲したと言われており、現在日本では「生田流」と「山田流」という二つの大きな流派がある。どちらの流派も江戸時代から続く流派であったが、生田流は関西地方を中心としており、元禄時代ころから京都・大阪地方で流行していた「地歌」と筝曲の合奏が行われるようになった。地歌は三味線を伴奏とした歌曲であり、主に目の不自由な人々の間で演奏されていた。
筝の種類
十七弦
1921(大正10)年、筝曲演奏家で作曲家でもある宮城道雄によって創造された。大合奏の作品に対する必要性から低温を担当する箏として発明された。全長約210センチの大きな胴に太い弦が17本張られている。
二十弦