節米料理

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2020年1月31日 (金) 18:21の版
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== 節米料理 == == 節米料理 ==
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'''戦前''' '''戦前'''
- + この頃は、都会と田舎で貧富の差が激しかった。交通の便が発達している都会は白米が主食なのはもちろん、外国から輸入されたパンやコーヒーが朝食、カレーライスは家庭の定番料理であり、オムレツやハンバーグがレストラン等に普及し始めていた。一方で、田舎はかなり貧しく、白米は税として納めるか、その残りは全て売り物にするか、という状況のため、米どころと呼ばれるところでさえも主食は売り物にならない「くず米」や「麦飯」、野菜やいもや雑穀を混ぜた「かて飯」が一般的であり、白米は年に2、3度、年始やお祭りのときなどのおめでたい日に食べるのみだった。
- この頃は、都会と田舎で貧富の差が激しかった。交通の便が発達している都会は白米が主食なのはもちろん、外国から輸入されたパンやコーヒーが朝食、カレーライスは家庭の定番料理であり、オムレツやハンバーグがレストラン等に普及し始めていた。一方で、田舎はかなり貧しく、白米は税として納めるか、その残りは全て売り物にするか、という状況のため、米どころと呼ばれるところでさえも主食は売り物にならない「くず米」や「麦飯」、野菜やいもや雑穀を混ぜた「かて飯」が一般的であり、白米は年に2、3度、年始やお祭りのときなどのおめでたい日に食べるのみだった。+
'''日中戦争下''' '''日中戦争下'''
- + 日中戦争が始まった当初は少し余裕があったが、それが長引き、軍事予算がかさんでくると、1938年に「国家総動員法」が制定され、節米が強制されるようになり、配給制度も始まった。そのため、白米をよく食べていた都会では節米ブームが巻き起こった。
- 日中戦争が始まった当初は少し余裕があったが、それが長引き、軍事予算がかさんでくると、1938年に「国家総動員法」が制定され、節米が強制されるようになり、配給制度も始まった。そのため、白米をよく食べていた都会では節米ブームが巻き起こった。+
初期は、主食としてパンや小麦が流行り、変わったところではホットケーキやお好み焼き、ニョッキやペリメニなど、様々なものが採用された。さらに、田舎の農村で行われていた「かて飯」も取り入れられていたようだ。 初期は、主食としてパンや小麦が流行り、変わったところではホットケーキやお好み焼き、ニョッキやペリメニなど、様々なものが採用された。さらに、田舎の農村で行われていた「かて飯」も取り入れられていたようだ。
また、食料管理者や栄養指導者が普及させようとしたものもある。それは「興亜パン」だ。これは生地をイースト菌で発酵させふっくらと焼き上げる今のパンとは全く違い、小麦粉に大豆の粉、海草の粉、魚粉、野菜くず等を加え、ベーキングパウダーで膨らませた、栄養本位のものだ。 また、食料管理者や栄養指導者が普及させようとしたものもある。それは「興亜パン」だ。これは生地をイースト菌で発酵させふっくらと焼き上げる今のパンとは全く違い、小麦粉に大豆の粉、海草の粉、魚粉、野菜くず等を加え、ベーキングパウダーで膨らませた、栄養本位のものだ。
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'''太平洋戦争下''' '''太平洋戦争下'''
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少しずつ配給されるものの種類が、量が、質が悪くなり始めると、白米が玄米になったり、肉や魚、卵などの重要なたんぱく質も満足に食べられなくなってきたりする。そのため、粉末の乾燥卵、淡水に生息する貝、サメなども食べるようになった。また、やはりここでも大豆はよく使われ、おからもかなり重宝されたようだ。 少しずつ配給されるものの種類が、量が、質が悪くなり始めると、白米が玄米になったり、肉や魚、卵などの重要なたんぱく質も満足に食べられなくなってきたりする。そのため、粉末の乾燥卵、淡水に生息する貝、サメなども食べるようになった。また、やはりここでも大豆はよく使われ、おからもかなり重宝されたようだ。
さらに、配給の米が白米から玄米や雑穀となった。そこで政府が普及させようとしたのが「国策炊き」である。この炊き方は、実際の量よりも3割程度増えて見える炊き方である。実際に量は増えていないが見た目だけでも多くすることで気休めとしていた。 さらに、配給の米が白米から玄米や雑穀となった。そこで政府が普及させようとしたのが「国策炊き」である。この炊き方は、実際の量よりも3割程度増えて見える炊き方である。実際に量は増えていないが見た目だけでも多くすることで気休めとしていた。
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'''空襲下''' '''空襲下'''
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戦争中に食料不足で苦しんだという話は実際のところ、この辺りに集中しているという。東京に爆弾が投下され、防空壕へ逃げ込む日々の中で、配給はあてにならず、闇市を頼るにも空襲で財産は焼けてしまった人々がたくさん出てきた。そのため、貴重な米の使い方も、「節米」等という生やさしいものではなくなってきていた。米は大抵雑炊にするが、今までのものとは違い、いものつるや、タニシを混ぜ、さらに水でかさ増しをして、するすると啜るように食べるものだった。 戦争中に食料不足で苦しんだという話は実際のところ、この辺りに集中しているという。東京に爆弾が投下され、防空壕へ逃げ込む日々の中で、配給はあてにならず、闇市を頼るにも空襲で財産は焼けてしまった人々がたくさん出てきた。そのため、貴重な米の使い方も、「節米」等という生やさしいものではなくなってきていた。米は大抵雑炊にするが、今までのものとは違い、いものつるや、タニシを混ぜ、さらに水でかさ増しをして、するすると啜るように食べるものだった。
そんな状況で、米に代わっていも類やかぼちゃが本格的に主食になった。いもは身も葉もつるも全て食べられるし、乾燥させれば日持ちもするし、甘い。かぼちゃは種を適当に撒くだけで勝手に育つし、こちらも身も葉も種も全て食べられる。 そんな状況で、米に代わっていも類やかぼちゃが本格的に主食になった。いもは身も葉もつるも全て食べられるし、乾燥させれば日持ちもするし、甘い。かぼちゃは種を適当に撒くだけで勝手に育つし、こちらも身も葉も種も全て食べられる。

2020年1月31日 (金) 18:23の版

節米料理

節米料理とは、日本で戦争が起きて国民全体が貧しく、白米が食べられなかったときに生まれた料理の総称である。 節米には大きくわけると3種類あり、①かさ増し、②代用食、③献立の工夫、というものが主に行われていたようだ。


変遷

戦前

この頃は、都会と田舎で貧富の差が激しかった。交通の便が発達している都会は白米が主食なのはもちろん、外国から輸入されたパンやコーヒーが朝食、カレーライスは家庭の定番料理であり、オムレツやハンバーグがレストラン等に普及し始めていた。一方で、田舎はかなり貧しく、白米は税として納めるか、その残りは全て売り物にするか、という状況のため、米どころと呼ばれるところでさえも主食は売り物にならない「くず米」や「麦飯」、野菜やいもや雑穀を混ぜた「かて飯」が一般的であり、白米は年に2、3度、年始やお祭りのときなどのおめでたい日に食べるのみだった。

日中戦争下

日中戦争が始まった当初は少し余裕があったが、それが長引き、軍事予算がかさんでくると、1938年に「国家総動員法」が制定され、節米が強制されるようになり、配給制度も始まった。そのため、白米をよく食べていた都会では節米ブームが巻き起こった。
初期は、主食としてパンや小麦が流行り、変わったところではホットケーキやお好み焼き、ニョッキやペリメニなど、様々なものが採用された。さらに、田舎の農村で行われていた「かて飯」も取り入れられていたようだ。
また、食料管理者や栄養指導者が普及させようとしたものもある。それは「興亜パン」だ。これは生地をイースト菌で発酵させふっくらと焼き上げる今のパンとは全く違い、小麦粉に大豆の粉、海草の粉、魚粉、野菜くず等を加え、ベーキングパウダーで膨らませた、栄養本位のものだ。
しかし、都会の人を悩ませたこの配給制度は、今まで白米が食べられなかった貧しい田舎にも平等に白米が行き渡るようになる、皮肉な状況にもなっていた。

太平洋戦争下

少しずつ配給されるものの種類が、量が、質が悪くなり始めると、白米が玄米になったり、肉や魚、卵などの重要なたんぱく質も満足に食べられなくなってきたりする。そのため、粉末の乾燥卵、淡水に生息する貝、サメなども食べるようになった。また、やはりここでも大豆はよく使われ、おからもかなり重宝されたようだ。
さらに、配給の米が白米から玄米や雑穀となった。そこで政府が普及させようとしたのが「国策炊き」である。この炊き方は、実際の量よりも3割程度増えて見える炊き方である。実際に量は増えていないが見た目だけでも多くすることで気休めとしていた。
また、婦人雑誌には、手作りおやつの記事も載っていた。さつまいもやじゃがいもを潰して細工した和菓子風の菓子に、いもやかぼちゃで作った餡。夏には寒天や甘い飲み物のレシピもあったようだ。

空襲下

戦争中に食料不足で苦しんだという話は実際のところ、この辺りに集中しているという。東京に爆弾が投下され、防空壕へ逃げ込む日々の中で、配給はあてにならず、闇市を頼るにも空襲で財産は焼けてしまった人々がたくさん出てきた。そのため、貴重な米の使い方も、「節米」等という生やさしいものではなくなってきていた。米は大抵雑炊にするが、今までのものとは違い、いものつるや、タニシを混ぜ、さらに水でかさ増しをして、するすると啜るように食べるものだった。
そんな状況で、米に代わっていも類やかぼちゃが本格的に主食になった。いもは身も葉もつるも全て食べられるし、乾燥させれば日持ちもするし、甘い。かぼちゃは種を適当に撒くだけで勝手に育つし、こちらも身も葉も種も全て食べられる。
また、配給では乾燥大豆、乾燥とうもろこし、麦、雑穀などが配られるようになった。この頃に、それらを粉にしたものを「すいとん」として本格的に食べるようになった。
野菜も貴重なものとなり、火を通すとかさが減ることから、生のままで食べることが増え、さらに、長持ちさせるために乾燥させて非常食とした。
ここまでくると、もはや食べられるものはなんでも食べる域にまで達し、婦人雑誌には、「食べられる野草」、「食べられる虫」の欄が生まれた。
そんな材料事情のため、味付けも濃い味でごまかす必要が出てくる。しかし調味料といってもも砂糖の配給は中止され、他の調味料の配給量も決まっていた。そのため、雑誌には増量方法が書かれるようになったが、次第に手作りをするという発想へと変わっていく。小麦粉で作った糊に醤油やソース、酢、塩等々を加え、味を調えて混ぜ合わせて煮たもの、というかなり心もとないものだったが無いよりはマシなようだった。
保存食としては、防空壕で食べることが前提とされていたため、手づかみで食べるものが望ましかったため、乾パンが配給されていたがそれも例に漏れず量は少ないので、炒り豆や干し飯、切り干し大根や干し椎茸等の乾物類が主だった。

参考文献:『戦火のレシピ 太平洋戦争下の食を知る』 岩波アクティブ新書 2002 斎藤美奈子 ハンドルネーム:AとB


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