持統天皇

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持統天皇(もとの名を鸕野讃良皇女)は大化元年(645)に生まれた。 持統天皇(もとの名を鸕野讃良皇女)は大化元年(645)に生まれた。
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この年は、まさに大化の改新の火蓋が切って落とされた年である。 この年は、まさに大化の改新の火蓋が切って落とされた年である。
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父は大化の改新の中心人物である天智天皇、母は天智天皇の重要な協力者であった蘇我倉山田石川麻呂の娘、遠智娘である。 父は大化の改新の中心人物である天智天皇、母は天智天皇の重要な協力者であった蘇我倉山田石川麻呂の娘、遠智娘である。
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この二人が結ばれるかげには、改新のもう一人の中心人物である藤原鎌足がいたといわれている。 この二人が結ばれるかげには、改新のもう一人の中心人物である藤原鎌足がいたといわれている。
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また『日本書紀』が「天命開別天皇(天智天皇)の第二女なり」と記すように、 また『日本書紀』が「天命開別天皇(天智天皇)の第二女なり」と記すように、
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大田皇女に次いで上から二番目にあたり、母の身分、年齢からいっても彼女の地位はかなり高かったといって良い。 大田皇女に次いで上から二番目にあたり、母の身分、年齢からいっても彼女の地位はかなり高かったといって良い。
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斉明三年(657)、鸕野皇女は中大兄皇子の同母弟である大海人皇子の妃となった(『書紀』持統前紀)。 斉明三年(657)、鸕野皇女は中大兄皇子の同母弟である大海人皇子の妃となった(『書紀』持統前紀)。
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これは彼女の姉、大田皇女も妃としていることから政略結婚であったといえる。 これは彼女の姉、大田皇女も妃としていることから政略結婚であったといえる。
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この時彼女はまだ第二妃であったが、その後大田皇女が亡くなったため、思いがけず第一妃の位を手に入れた。 この時彼女はまだ第二妃であったが、その後大田皇女が亡くなったため、思いがけず第一妃の位を手に入れた。
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その後壬申の乱を経て、飛鳥浄御原宮で大海人皇子が即位して天武天皇になり、鸕野皇女は皇后となった。 その後壬申の乱を経て、飛鳥浄御原宮で大海人皇子が即位して天武天皇になり、鸕野皇女は皇后となった。
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そしてこの二人の指導のもとに、日本の古代国家は最後の完成へのコースを辿る。 そしてこの二人の指導のもとに、日本の古代国家は最後の完成へのコースを辿る。
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その後、実子である草壁皇子と姉である大田皇女の大津皇子のどちらを皇太子にするか、 その後、実子である草壁皇子と姉である大田皇女の大津皇子のどちらを皇太子にするか、
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という後継者問題が勃発したが、天武天皇は悩んだ末、草壁皇子を皇太子とした。 という後継者問題が勃発したが、天武天皇は悩んだ末、草壁皇子を皇太子とした。
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この時天武天皇は、自分の死後における大津皇子の立場について心配をしていたようだが、 この時天武天皇は、自分の死後における大津皇子の立場について心配をしていたようだが、
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それは彼の死後一ヶ月も経たないうちに現実となった。大津皇子の謀反が発覚したのである。 それは彼の死後一ヶ月も経たないうちに現実となった。大津皇子の謀反が発覚したのである。
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そして発覚後わずか三日で大津皇子は死刑に処せられる。これは鸕野皇后の陰謀ではないかといわれている。 そして発覚後わずか三日で大津皇子は死刑に処せられる。これは鸕野皇后の陰謀ではないかといわれている。
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こうして草壁皇子の立場は確立されたが、彼は即位する前に急逝してしまうという事態が起こる。 こうして草壁皇子の立場は確立されたが、彼は即位する前に急逝してしまうという事態が起こる。
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後継者候補はいたものの、どの皇子を後継者とするにも難点があったため、 後継者候補はいたものの、どの皇子を後継者とするにも難点があったため、
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数年の称制を経てついに鸕野皇后が持統天皇として即位する。 数年の称制を経てついに鸕野皇后が持統天皇として即位する。
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天武天皇が着手し、689年、持統天皇によって制定・施行された。 天武天皇が着手し、689年、持統天皇によって制定・施行された。
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令22巻で、日本史上最初の体系的な律令法と考えられているが、現存しないため詳細は不明。 令22巻で、日本史上最初の体系的な律令法と考えられているが、現存しないため詳細は不明。
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戸籍を6年に1回作成すること(六年一造)、50戸を1里とする地方制度、班田収授に関する規定など、 戸籍を6年に1回作成すること(六年一造)、50戸を1里とする地方制度、班田収授に関する規定など、
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律令制の骨格が本令により制度化されたと考えられている。 律令制の骨格が本令により制度化されたと考えられている。
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また690年には庚寅年籍も作られ、民衆の把握も進められた。 また690年には庚寅年籍も作られ、民衆の把握も進められた。
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大和三山(耳梨山、天香久山、畝傍山)にとり囲まれており、のちの平城京、平安京と続く都づくりの基礎とも言われている。 大和三山(耳梨山、天香久山、畝傍山)にとり囲まれており、のちの平城京、平安京と続く都づくりの基礎とも言われている。
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日本最初の条坊制布いており、有力な王族や中央豪族がそこに集住させられた。 日本最初の条坊制布いており、有力な王族や中央豪族がそこに集住させられた。
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そして国家の重要な政務・儀式の場として、中国にならった瓦葺で礎石建ちの大極殿・朝堂院がつくられるなど、 そして国家の重要な政務・儀式の場として、中国にならった瓦葺で礎石建ちの大極殿・朝堂院がつくられるなど、
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新しい中央集権国家を象徴する都となった。 新しい中央集権国家を象徴する都となった。
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694年、飛鳥浄御原宮から移る。 694年、飛鳥浄御原宮から移る。

2008年10月17日 (金) 06:58の版

経歴

①誕生

持統天皇(もとの名を鸕野讃良皇女)は大化元年(645)に生まれた。

この年は、まさに大化の改新の火蓋が切って落とされた年である。

父は大化の改新の中心人物である天智天皇、母は天智天皇の重要な協力者であった蘇我倉山田石川麻呂の娘、遠智娘である。

この二人が結ばれるかげには、改新のもう一人の中心人物である藤原鎌足がいたといわれている。

また『日本書紀』が「天命開別天皇(天智天皇)の第二女なり」と記すように、

大田皇女に次いで上から二番目にあたり、母の身分、年齢からいっても彼女の地位はかなり高かったといって良い。

②結婚

斉明三年(657)、鸕野皇女は中大兄皇子の同母弟である大海人皇子の妃となった(『書紀』持統前紀)。

これは彼女の姉、大田皇女も妃としていることから政略結婚であったといえる。

この時彼女はまだ第二妃であったが、その後大田皇女が亡くなったため、思いがけず第一妃の位を手に入れた。

その後壬申の乱を経て、飛鳥浄御原宮で大海人皇子が即位して天武天皇になり、鸕野皇女は皇后となった。

そしてこの二人の指導のもとに、日本の古代国家は最後の完成へのコースを辿る。

③即位

その後、実子である草壁皇子と姉である大田皇女の大津皇子のどちらを皇太子にするか、

という後継者問題が勃発したが、天武天皇は悩んだ末、草壁皇子を皇太子とした。

この時天武天皇は、自分の死後における大津皇子の立場について心配をしていたようだが、

それは彼の死後一ヶ月も経たないうちに現実となった。大津皇子の謀反が発覚したのである。

そして発覚後わずか三日で大津皇子は死刑に処せられる。これは鸕野皇后の陰謀ではないかといわれている。

こうして草壁皇子の立場は確立されたが、彼は即位する前に急逝してしまうという事態が起こる。

後継者候補はいたものの、どの皇子を後継者とするにも難点があったため、

数年の称制を経てついに鸕野皇后が持統天皇として即位する。


持統天皇の業績

①飛鳥浄御原令

天武天皇が着手し、689年、持統天皇によって制定・施行された。

令22巻で、日本史上最初の体系的な律令法と考えられているが、現存しないため詳細は不明。

戸籍を6年に1回作成すること(六年一造)、50戸を1里とする地方制度、班田収授に関する規定など、

律令制の骨格が本令により制度化されたと考えられている。

また690年には庚寅年籍も作られ、民衆の把握も進められた。

②藤原京

大和三山(耳梨山、天香久山、畝傍山)にとり囲まれており、のちの平城京、平安京と続く都づくりの基礎とも言われている。

日本最初の条坊制布いており、有力な王族や中央豪族がそこに集住させられた。

そして国家の重要な政務・儀式の場として、中国にならった瓦葺で礎石建ちの大極殿・朝堂院がつくられるなど、

新しい中央集権国家を象徴する都となった。

694年、飛鳥浄御原宮から移る。


参考文献

直木孝次郎(著) 日本歴史学会(編) 1985 持統天皇 吉川弘文館

山本偦 1988 持統女帝の謎 立風書房

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BA%AC


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