平清盛

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2008年10月27日 (月) 01:32の版

 平清盛(1118~1181)は、平安時代末期、平氏の全盛期を築いた武将。忠盛の長男。  保元元年(1156年)の保元の乱では、清盛の立場は難しいものであったが一門の結束につとめ、後白河天皇側について勝利をもたらし播磨守、大宰大弐となる。信西(藤原通憲)と藤原信頼・二条親政派の対立では中立的立場をとっていたが、平治元年(1159年)の平治の乱で政権を握った藤原信頼・経宗・惟方などの反信西派を一掃することで、急速にその政治的地位を高めることになる。この過程で源義朝・源重成といった有力武士が滅亡したため、清盛は武士の第一人者として朝廷の軍事力・警察力を掌握した。これにより、清盛は武家政権樹立の礎を築くにいたったのである。  保元の乱・平治の乱で源氏を押さえて中央政界に進出し、1167年に太政大臣となり、娘の徳子を高倉天皇の后とした。この間、一族を朝廷の高位高官につけ、西国500余りの荘園を持ち、30カ国を知行国として全盛を誇った。日宋貿易を推進して莫大な財貨を手にし、平時忠をして「平氏にあらざれば人にあらず」といわしめた。  後に後白河法皇と対立し院政を辞めさせ、徳子の産んだ安徳天皇を即位させ、外祖父として独裁政治を行った。そのため反感を抱く者がふえ、各地で源氏が挙兵するなか、病死した。63才であった。


参考文献・HP 上横手雅敬 『源平争乱と平家物語』 角川選書、2001年。 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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