寛政異学の禁
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- | 寛政異学の禁(かんせいいがくのきん)とは、1790年(寛政2年)、当時江戸幕府の老中であった松平定信が寛政の改革の際に行った学問統制である。 | + | 寛政異学の禁(かんせいいがくのきん)とは、1790年(寛政2年)、江戸幕府の老中であった松平定信が寛政の改革の一環として行った学問統制である。 |
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+ | 田沼意次時代の天明の大飢饉を乗り越えたり、低下した幕府の指導力を取り戻すために、儒学のうち農業と上下の秩序を重視した朱子学を正学とし、湯島聖堂の学問所で朱子学以外の講義や研究を禁じた。 | ||
+ | 湯島聖堂の学問所には儒官として柴野栗山・尾藤二洲・岡田寒泉が任じられ、この3人を「寛政の三博士」という。その後、岡田寒泉は代官に転任し、その後に古賀精里が任ぜられた。学問所は7年後に官立に改められ、昌平坂学問所と呼ばれた。 | ||
+ | なお、昌平坂学問所では異学の講義を禁じられたが、国内の異学派による学問や講義を禁じられたわけではない。 | ||
+ | また、異学の禁に反対した儒者五名(亀田鵬斎、山本北山、冢田大峯、豊島豊洲、市川鶴鳴)を特に寛政の五鬼という。 |
2008年11月5日 (水) 15:39の版
寛政異学の禁(かんせいいがくのきん)とは、1790年(寛政2年)、江戸幕府の老中であった松平定信が寛政の改革の一環として行った学問統制である。
田沼意次時代の天明の大飢饉を乗り越えたり、低下した幕府の指導力を取り戻すために、儒学のうち農業と上下の秩序を重視した朱子学を正学とし、湯島聖堂の学問所で朱子学以外の講義や研究を禁じた。 湯島聖堂の学問所には儒官として柴野栗山・尾藤二洲・岡田寒泉が任じられ、この3人を「寛政の三博士」という。その後、岡田寒泉は代官に転任し、その後に古賀精里が任ぜられた。学問所は7年後に官立に改められ、昌平坂学問所と呼ばれた。 なお、昌平坂学問所では異学の講義を禁じられたが、国内の異学派による学問や講義を禁じられたわけではない。 また、異学の禁に反対した儒者五名(亀田鵬斎、山本北山、冢田大峯、豊島豊洲、市川鶴鳴)を特に寛政の五鬼という。