冠位十二階の制2

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冠位十二階 冠位十二階
-冠位十二階は、朝鮮諸国の官位制にならったもので、推古十一年(603年)に律令制の位階制の源流として制定され、翌年施行されたと「日本書紀」に見られる。しかし、一斉に施行されたのではなく機械あるごとに授与されたものとみられる。この冠位十二階のことは、「隋書倭国伝」にも記載されており、確実なことであることが知られる。+ 冠位十二階は、朝鮮諸国の官位制にならったもので、推古十一年(603年)に律令制の位階制の源流として制定され、翌年施行されたと「日本書紀」に見られる。しかし、一斉に施行されたのではなく機械あるごとに授与されたものとみられる。この冠位十二階のことは、「隋書倭国伝」にも記載されており、確実なことであることが知られる。
-冠位十二階は、大徳、小徳、大仁、小仁、大礼、小礼、大信、小信、大義、小義、大智、小智の十二からなる。儒教の最高の徳目である徳を初めにおき、人の行うべきに仁、義、礼、智、信の五常の徳目の順位を、五行思想によって入れ替え、徳以下の六つの冠をそれぞれ大小にわけたものである。+ 冠位十二階は、大徳、小徳、大仁、小仁、大礼、小礼、大信、小信、大義、小義、大智、小智の十二からなる。儒教の最高の徳目である徳を初めにおき、人の行うべきに仁、義、礼、智、信の五常の徳目の順位を、五行思想によって入れ替え、徳以下の六つの冠をそれぞれ大小にわけたものである。
-六世紀前半以降の官司制の進展に伴い、官僚機構の整備が必要とされ、豪族に冠位を授与することによって官人(役人)としての新しい身分秩序を創出したものである。この時期に儒教が重視されたのは、隋との外交が意識されたためで、国内の礼の秩序を整え、威儀を備える必要があった。+ 六世紀前半以降の官司制の進展に伴い、官僚機構の整備が必要とされ、豪族に冠位を授与することによって官人(役人)としての新しい身分秩序を創出したものである。この時期に儒教が重視されたのは、隋との外交が意識されたためで、国内の礼の秩序を整え、威儀を備える必要があった。
-これまで豪族の身分を示すものとしては、姓の制度があったが、姓は氏を単位として、氏族の職掌や政治的地位に応じて与えられ、世襲されるものであった。これに対して、冠位は個人の才能や功労に応じて与えられるもので、世襲されず、しかも固定的なものではなく、昇進が可能であった。+ これまで豪族の身分を示すものとしては、姓の制度があったが、姓は氏を単位として、氏族の職掌や政治的地位に応じて与えられ、世襲されるものであった。これに対して、冠位は個人の才能や功労に応じて与えられるもので、世襲されず、しかも固定的なものではなく、昇進が可能であった。
冠位施行の実態を見ると、同じ氏でも冠位の異なる例としては、大徳の大伴連咋子と小徳の大伴馬飼があげられる。また、冠位の昇進した例としては、小野妹子があげられる。妹子は、推古十五(607年)に隋に派遣されたときは第五位の大礼であったが、最終的には第一位の大徳にまで昇進している。 冠位施行の実態を見ると、同じ氏でも冠位の異なる例としては、大徳の大伴連咋子と小徳の大伴馬飼があげられる。また、冠位の昇進した例としては、小野妹子があげられる。妹子は、推古十五(607年)に隋に派遣されたときは第五位の大礼であったが、最終的には第一位の大徳にまで昇進している。
- + 被授者の本貫を見ると、地域的には、畿内とその周辺に限られており、施行範囲はかなり限定され、地方豪族にも冠位が授けられるのは大化以後のことである。また、皇族や蘇我大臣家からは授与された形跡が認められない。すなわち、律令制の三位以上の朝政官(閣僚)に相当するような高級官僚たちは冠を授けられる対象にはならず、授ける側であった。
-被授者の本貫を見ると、地域的には、畿内とその周辺に限られており、施行範囲はかなり限定され、地方豪族にも冠位が授けられるのは大化以後のことである。また、皇族や蘇我大臣家からは授与された形跡が認められない。すなわち、律令制の三位以上の朝政官(閣僚)に相当するような高級官僚たちは冠を授けられる対象にはならず、授ける側であった。+
色の濃淡による区分の矛盾 色の濃淡による区分の矛盾
-冠位十二階は、十二色の冠で序列を表現する制度であり、それは、紫、青、赤、黄、白、黒の六色をそれぞれ濃淡に分け、十二通りの色分けをするというのが通説である。しかし、白を濃淡に分けるとは、どういうことなのかという問題に気づく。また、冠位十二階が六色の濃淡で冠位を表現したということは、史料の中にはどこにも語られていない。+ 冠位十二階は、十二色の冠で序列を表現する制度であり、それは、紫、青、赤、黄、白、黒の六色をそれぞれ濃淡に分け、十二通りの色分けをするというのが通説である。しかし、白を濃淡に分けるとは、どういうことなのかという問題に気づく。また、冠位十二階が六色の濃淡で冠位を表現したということは、史料の中にはどこにも語られていない。
-冠位十二階に関する記述は、「日本書紀」六〇三年(推古十一)に見える。「始めて冠位のことを行う。大徳、小徳、大仁、小仁、大礼、小礼、大信、小信、大義、小義、大智、小智。併せて十二階。並びに当色絁をもって縫えり。頂は撮り総て囊の如くにして、縁を着く。唯元年には髻花を着す」とある記事がそれである。+ 冠位十二階に関する記述は、「日本書紀」六〇三年(推古十一)に見える。「始めて冠位のことを行う。大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智。併せて十二階。並びに当色絁をもって縫えり。頂は撮り総て囊の如くにして、縁を着く。唯元年には髻花を着す」とある記事がそれである。
-ここには「当色のあしぎぬ」とあるだけで、色の名前は出てこない。にもかかわらず谷川士清の「日本書紀通証」は、+ ここには「当色のあしぎぬ」とあるだけで、紫や青・赤・黄といった色の名前は出てこない。にもかかわらず谷川士清の「日本書紀通証」は、紫と五行思想に基づいた五常の五色を序列として配し、また衣服令が色の濃淡で位階を細かく表現したことを冠位十二階にもあてはめて、六色の濃淡計十二色と考えた。これが厳密に検討される機会もないまま、長く受け入れられて定説となった。
 + しかし、冠位十二階と衣服令は百数十年の開きがあり、この間に幾度も改定された冠位の制度が、すべて色の濃淡で身分を表示したわけではない。なによりも白の濃淡という不合理が、この通説の問題点を赤裸々にしている。字づらの上だけで色名を記せば気付かないことも、具体的にその色を配した冠をかぶった人々を描こうという段になってはじめて、ことの矛盾に思い至るのである。おそらく冠位十二階の大・小位を区分するものは、各色の濃淡ではありえず、区分があったとすれば、冠帽の縁の色か、あるいは縁の織物の素材などによったと考えるべきだろう。
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2008年11月14日 (金) 12:45の版

冠位十二階

 冠位十二階は、朝鮮諸国の官位制にならったもので、推古十一年(603年)に律令制の位階制の源流として制定され、翌年施行されたと「日本書紀」に見られる。しかし、一斉に施行されたのではなく機械あるごとに授与されたものとみられる。この冠位十二階のことは、「隋書倭国伝」にも記載されており、確実なことであることが知られる。

 冠位十二階は、大徳、小徳、大仁、小仁、大礼、小礼、大信、小信、大義、小義、大智、小智の十二からなる。儒教の最高の徳目である徳を初めにおき、人の行うべきに仁、義、礼、智、信の五常の徳目の順位を、五行思想によって入れ替え、徳以下の六つの冠をそれぞれ大小にわけたものである。

 六世紀前半以降の官司制の進展に伴い、官僚機構の整備が必要とされ、豪族に冠位を授与することによって官人(役人)としての新しい身分秩序を創出したものである。この時期に儒教が重視されたのは、隋との外交が意識されたためで、国内の礼の秩序を整え、威儀を備える必要があった。

 これまで豪族の身分を示すものとしては、姓の制度があったが、姓は氏を単位として、氏族の職掌や政治的地位に応じて与えられ、世襲されるものであった。これに対して、冠位は個人の才能や功労に応じて与えられるもので、世襲されず、しかも固定的なものではなく、昇進が可能であった。 冠位施行の実態を見ると、同じ氏でも冠位の異なる例としては、大徳の大伴連咋子と小徳の大伴馬飼があげられる。また、冠位の昇進した例としては、小野妹子があげられる。妹子は、推古十五(607年)に隋に派遣されたときは第五位の大礼であったが、最終的には第一位の大徳にまで昇進している。  被授者の本貫を見ると、地域的には、畿内とその周辺に限られており、施行範囲はかなり限定され、地方豪族にも冠位が授けられるのは大化以後のことである。また、皇族や蘇我大臣家からは授与された形跡が認められない。すなわち、律令制の三位以上の朝政官(閣僚)に相当するような高級官僚たちは冠を授けられる対象にはならず、授ける側であった。

色の濃淡による区分の矛盾

 冠位十二階は、十二色の冠で序列を表現する制度であり、それは、紫、青、赤、黄、白、黒の六色をそれぞれ濃淡に分け、十二通りの色分けをするというのが通説である。しかし、白を濃淡に分けるとは、どういうことなのかという問題に気づく。また、冠位十二階が六色の濃淡で冠位を表現したということは、史料の中にはどこにも語られていない。

 冠位十二階に関する記述は、「日本書紀」六〇三年(推古十一)に見える。「始めて冠位のことを行う。大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智。併せて十二階。並びに当色絁をもって縫えり。頂は撮り総て囊の如くにして、縁を着く。唯元年には髻花を着す」とある記事がそれである。

 ここには「当色のあしぎぬ」とあるだけで、紫や青・赤・黄といった色の名前は出てこない。にもかかわらず谷川士清の「日本書紀通証」は、紫と五行思想に基づいた五常の五色を序列として配し、また衣服令が色の濃淡で位階を細かく表現したことを冠位十二階にもあてはめて、六色の濃淡計十二色と考えた。これが厳密に検討される機会もないまま、長く受け入れられて定説となった。  しかし、冠位十二階と衣服令は百数十年の開きがあり、この間に幾度も改定された冠位の制度が、すべて色の濃淡で身分を表示したわけではない。なによりも白の濃淡という不合理が、この通説の問題点を赤裸々にしている。字づらの上だけで色名を記せば気付かないことも、具体的にその色を配した冠をかぶった人々を描こうという段になってはじめて、ことの矛盾に思い至るのである。おそらく冠位十二階の大・小位を区分するものは、各色の濃淡ではありえず、区分があったとすれば、冠帽の縁の色か、あるいは縁の織物の素材などによったと考えるべきだろう。  


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