夜警

出典: Jinkawiki

(版間での差分)

2008年12月12日 (金) 11:37の版

夜警(フランス・バニング・コック長官の一隊)

1642年、H・ファン・レイン・レンブラント作。

レンブラントが市民自警団からの依頼で描かれた集団肖像画である。レンブラントの絵画は、その感情に訴える力と、人間に対する深い理解、そして、表現におけるドラマチックな美しさにおいて定評がある。

油彩で描かれ今はアムステルダム国立美術館に所蔵されている。 カンヴァスの大きさは370.8×444.5㎝。

しかし、この絵は完全なものではない。18世紀に警備隊官舎のもとの部屋から移される際に、一部が切り落とされてしまった。もともとは褐色の壁板にかなり高く掛けられていたので、画面はちょうど目の高さの位置になり、しかも光線がある程度考慮されていたので強烈な色彩と光の対比が、現在よりもいっそう生気と感動にあふれていたものと考えられる。


夜警は、レンブラントの意図が完全に実現された作品の一つとは言えない。集団肖像であるため、それまでの、強烈な色彩の生命を好み、暗い陰影の中に包むという彼のスタイルから脱却し、画面全体の隅々にまで描く必要に迫られた。バニング・コック長官と彼の隊員の等身大の肖像を描く注文を受けたのである。

また、夜警について理解するには、歴史的な概観を知ることが必要となってくる。レンブラントが生きた時代(1606-1669年)のオランダの政治情勢や彼の故郷の都市の状況などが大きく影響しているのである。

1609年、レンブラントが生まれて3年後であるが、オランダ国会はスペインとやっとのことで休戦協定を結んだ。このことは、オランダの宗教的独立や経済的自立を保障したばかりか、その高度に独創的な絵画を開花させるのに必要な諸条件を生み出すことになった。およそ半世紀の間、この小さな国は、戦勝海軍のおかげで制海権をにぎり、しかも植民地から豊かな利潤を集める一大列強といえるほどの地位を保持していた。やがて、オランダがイギリスやフランスに対して少しずつその支配権を譲らなければならなくなったのは1650年以後のことである。

レンブラントが活躍した時代のオランダは、強大な商業国で、一部はカルヴァン主義を基盤にし、中流階級が大勢を占めるこの都市の文化は、南部の低地地方(現・ベルギー)の文化と比べ、著しい対照をなしていた。依然としてカトリックが信仰されていた低地地方は長期にわたってハプスブルク家の領地になっていた。この南部地方の生活や文化を左右したのは、南ヨーロッパの場合とほとんど同様に、権力的な世俗の統治者であり、教会の偉大な支配者であり、誇り高い貴族たちであった。このような事情はオランダにおいては異なっていた。ここでは、強力に団結した市民が自らの独立を勝ち取っていたので、彼らは自らの成し遂げたことを十分自覚して、進んで平和な自由を愛好する生業に専念していた。オランダの市民たちは、ヨーロッパのどの国民よりもはるかに高度な個人の自由を享受していたのである。オランダでは、ちょうどその偉大な独立国としての地位を商業上の制海権に負っていたこの国の姉妹共和国ヴェネツィアのように、海洋国に特有の絵画が作り出された。

このようにオランダとヴェネツィアは共通点がありつつも、本質的な違いがあった。 南欧のキリスト教に属する貴族的共和国のヴェネツィアでは描かれる主題はほとんど宗教的で公共的なものに限られていた。というのは、絵画は教会堂を装飾し国家やヴェネツィアの勝利、ドージェの権力をたたえるためのものであった。しかし、北欧におけるカルヴァン主義の共和国オランダでは17世紀の絵画の主題や役割は、中産階級の家庭の壁面を飾るために用いられたり、エングレーヴィングやエッチングとして複製されて配布されたのである。


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