徳川吉宗
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江戸幕府の財政を立て直すために8代将軍・徳川吉宗は家康の政策への復帰を訴えていきます。政治政策的には、それまでの側近政治を改め、将軍独裁による武断政治をおこないます。そして、経済政策的には、米を重視した政策を打ち出しました。吉宗は、借金の訴訟に幕府は介入しないとして、事実上、旗本・御家人を救済する相対済し令や大岡忠相などの優秀な人材を登用する足高の制、目安箱による小石川養生所や町火消しの設立などを実施していきました。また、諸大名に参勤交代の負担を軽くする代わりに、1万石につき百石ずつを上米の制によって納入させたほか、その年の収穫量に応じて年貢率で決める検見法から、一定の年数は同じ年貢率を徴収する定免法へと改めました。吉宗が紀伊藩主から8代将軍へと招かれたのは、江戸幕府の財政が危機に瀕していた時期でした。そんな中で、吉宗の独裁政治によって始められた享保の改革は、江戸幕府開設当初の幕政を理想とする復古主義を全面に押し出したものでした。「諸事権現様御掟之通」。つまり、家康の頃の政策に回帰することによって、幕府財政の再建を意図したものだったのです。それに対して、1772年、側用人から老中となった田沼意次は、享保の改革の殖産興業政策を継承した上で商品経済の発展に対応し、都市商業資本を積極的に利用する現実主義の政治を目指しました。結局、賄賂政治への批判によって退陣へ追い込まれていくのですが、現在では、この賄賂政治がはたして本当にあったのかについて再検討が必要であるという意見も多く聞かれています。 | 江戸幕府の財政を立て直すために8代将軍・徳川吉宗は家康の政策への復帰を訴えていきます。政治政策的には、それまでの側近政治を改め、将軍独裁による武断政治をおこないます。そして、経済政策的には、米を重視した政策を打ち出しました。吉宗は、借金の訴訟に幕府は介入しないとして、事実上、旗本・御家人を救済する相対済し令や大岡忠相などの優秀な人材を登用する足高の制、目安箱による小石川養生所や町火消しの設立などを実施していきました。また、諸大名に参勤交代の負担を軽くする代わりに、1万石につき百石ずつを上米の制によって納入させたほか、その年の収穫量に応じて年貢率で決める検見法から、一定の年数は同じ年貢率を徴収する定免法へと改めました。吉宗が紀伊藩主から8代将軍へと招かれたのは、江戸幕府の財政が危機に瀕していた時期でした。そんな中で、吉宗の独裁政治によって始められた享保の改革は、江戸幕府開設当初の幕政を理想とする復古主義を全面に押し出したものでした。「諸事権現様御掟之通」。つまり、家康の頃の政策に回帰することによって、幕府財政の再建を意図したものだったのです。それに対して、1772年、側用人から老中となった田沼意次は、享保の改革の殖産興業政策を継承した上で商品経済の発展に対応し、都市商業資本を積極的に利用する現実主義の政治を目指しました。結局、賄賂政治への批判によって退陣へ追い込まれていくのですが、現在では、この賄賂政治がはたして本当にあったのかについて再検討が必要であるという意見も多く聞かれています。 | ||
- | 参考文献:「まるわかり日本史」 須藤公博著 永岡書店 | + | |
+ | 参考文献:「まるわかり日本史」 須藤公博著 永岡書店 |
2008年12月17日 (水) 22:47の版
家康の政治を理想に掲げた徳川吉宗
江戸幕府の財政を立て直すために8代将軍・徳川吉宗は家康の政策への復帰を訴えていきます。政治政策的には、それまでの側近政治を改め、将軍独裁による武断政治をおこないます。そして、経済政策的には、米を重視した政策を打ち出しました。吉宗は、借金の訴訟に幕府は介入しないとして、事実上、旗本・御家人を救済する相対済し令や大岡忠相などの優秀な人材を登用する足高の制、目安箱による小石川養生所や町火消しの設立などを実施していきました。また、諸大名に参勤交代の負担を軽くする代わりに、1万石につき百石ずつを上米の制によって納入させたほか、その年の収穫量に応じて年貢率で決める検見法から、一定の年数は同じ年貢率を徴収する定免法へと改めました。吉宗が紀伊藩主から8代将軍へと招かれたのは、江戸幕府の財政が危機に瀕していた時期でした。そんな中で、吉宗の独裁政治によって始められた享保の改革は、江戸幕府開設当初の幕政を理想とする復古主義を全面に押し出したものでした。「諸事権現様御掟之通」。つまり、家康の頃の政策に回帰することによって、幕府財政の再建を意図したものだったのです。それに対して、1772年、側用人から老中となった田沼意次は、享保の改革の殖産興業政策を継承した上で商品経済の発展に対応し、都市商業資本を積極的に利用する現実主義の政治を目指しました。結局、賄賂政治への批判によって退陣へ追い込まれていくのですが、現在では、この賄賂政治がはたして本当にあったのかについて再検討が必要であるという意見も多く聞かれています。
参考文献:「まるわかり日本史」 須藤公博著 永岡書店