大日本沿海輿地全図

出典: Jinkawiki

(版間での差分)
2008年12月24日 (水) 09:57の版
Bunkyo-student2008 (ノート | 投稿記録)

← 前の差分へ
2008年12月24日 (水) 10:51の版
Bunkyo-student2008 (ノート | 投稿記録)

次の差分へ →
1 行 1 行
- 江戸時代の後半にさしかかると、蝦夷地周辺にロシア軍船が出没し、長崎港にイギリス船が闖入する事件が相次ぎ、国防上の必要に迫られ、幕府は本格的な地図作成にとりかかることになった。そこで、幕府は伊能忠敬に日本全国を測量・図化させ、精密な日本地図作成を命じた。                                                                伊能                       + 江戸時代の後半にさしかかると、蝦夷地周辺にロシア軍船が出没し、長崎港にイギリス船が闖入する事件が相次ぎ、国防上の必要に迫られ、幕府は本格的な地図作成にとりかかることになった。そこで、幕府は1800年(寛政12)に伊能忠敬を蝦夷地測量に向かわせた。                                                                   
 + 伊能忠敬が日本全国の測量と地図作成に取り組んだのは、学問的要求から発した個人的行為であった。それは、正確な日本列島の形を調べるとともに緯度1度の距離を測り、地球の円周を計算するということであった。そこで、全国の測量をさせてほしいと願い出たところ、幕府も蝦夷地調査を検討中であったため、蝦夷地に限って許可したのである。                                                                                                            忠敬の地図は、海岸線を測量して作った沿海実測図であった。そのため、内陸部は忠敬自身が歩いた街道以外は描かれていない。しかし、海岸線の描き方は極めて正確であり、日本の国土の正確な形がはじめて明らかにされた。            忠敬の測量の仕方は、地上の測量に関しては、以前から行われていた、導線法と交会法の組み合わせによるものであった。                     導線法とは、間縄(普通長さ60間「108メートル」、気候による伸縮を防ぐために鉄鎖や鯨のひれを材料とした)によって距離を測り、方位盤(磁針を目盛盤にセットした道具)で方位を測る方法である。                    交会法とは、同一の遠い目標に対して、数か所から方位を測定する方法である。これによって、目標とした事物の位置を測定できるとともに、導線法による測量誤差の修正にも役立つ。                               忠敬の地上測量の方法は目新しくはなかったが、忠敬の測量は幕府の命によるものであったため、幕府直轄領・大名領・旗本領などの境界を越えて、広い範囲で統一的に丹念に測量を行うことができた。これが正確な地図を作ることができた1つの理由である。また、忠敬は地上測量の誤差を補正するために、象限儀という道具を用いて、天体観測を行った。                                                                  1816年(文化13)に忠敬は日本の全測量を終えた。約8900里、3万5000キロを歩いた。                              しかし、1818年(文政元)に74歳で死去した。そのため、225枚の「大日本沿海輿地図」は門人らにより完成させられた。                       

2008年12月24日 (水) 10:51の版

 江戸時代の後半にさしかかると、蝦夷地周辺にロシア軍船が出没し、長崎港にイギリス船が闖入する事件が相次ぎ、国防上の必要に迫られ、幕府は本格的な地図作成にとりかかることになった。そこで、幕府は1800年(寛政12)に伊能忠敬を蝦夷地測量に向かわせた。                                                                     伊能忠敬が日本全国の測量と地図作成に取り組んだのは、学問的要求から発した個人的行為であった。それは、正確な日本列島の形を調べるとともに緯度1度の距離を測り、地球の円周を計算するということであった。そこで、全国の測量をさせてほしいと願い出たところ、幕府も蝦夷地調査を検討中であったため、蝦夷地に限って許可したのである。                                                                                                            忠敬の地図は、海岸線を測量して作った沿海実測図であった。そのため、内陸部は忠敬自身が歩いた街道以外は描かれていない。しかし、海岸線の描き方は極めて正確であり、日本の国土の正確な形がはじめて明らかにされた。            忠敬の測量の仕方は、地上の測量に関しては、以前から行われていた、導線法と交会法の組み合わせによるものであった。                     導線法とは、間縄(普通長さ60間「108メートル」、気候による伸縮を防ぐために鉄鎖や鯨のひれを材料とした)によって距離を測り、方位盤(磁針を目盛盤にセットした道具)で方位を測る方法である。                    交会法とは、同一の遠い目標に対して、数か所から方位を測定する方法である。これによって、目標とした事物の位置を測定できるとともに、導線法による測量誤差の修正にも役立つ。                               忠敬の地上測量の方法は目新しくはなかったが、忠敬の測量は幕府の命によるものであったため、幕府直轄領・大名領・旗本領などの境界を越えて、広い範囲で統一的に丹念に測量を行うことができた。これが正確な地図を作ることができた1つの理由である。また、忠敬は地上測量の誤差を補正するために、象限儀という道具を用いて、天体観測を行った。                                                                  1816年(文化13)に忠敬は日本の全測量を終えた。約8900里、3万5000キロを歩いた。                              しかし、1818年(文政元)に74歳で死去した。そのため、225枚の「大日本沿海輿地図」は門人らにより完成させられた。                       


  人間科学大事典

    ---50音の分類リンク---
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                          
                  
          

  構成