比叡山焼き討ち
出典: Jinkawiki
2008年12月30日 (火) 01:59の版
- 概要
元亀2(1571)年9月12日、織田信長が天台宗の総本山比叡山を焼き討ちした。
- 比叡山とは
延暦寺は、平安時代初期の僧侶最澄により開かれた天台宗の本山寺院である。延暦寺は年を追うごとに強大な権力を持っていく。延暦寺はその権威に伴う武力があり、また物資の流通を握ることによる財力をも持っており、時の権力者を無視できる一種の独立国のような状態であった。延暦寺の僧兵の力は奈良興福寺と並び称せられ、南都北嶺と恐れられた。
- 織田信長と浅井長政の関係
1560年代、織田信長と浅井長政は、信長が長政の盟友である朝倉氏に進軍はしないという約束の下、同盟を結んだ。信長は妹の市を長政に嫁がせている。 しかし、信長は朝倉氏を攻撃しないという約束があったのにもかかわらず、1570年に徳川家康とともに朝倉氏の城を攻める。こうして同年6月に浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍の戦いである姉川の合戦が起き、浅井・朝倉連合軍が織田・徳川連合軍に敗れる。
- 焼き討ち
1570年8月、姉川の合戦が終わり、信長は摂津の野田・福島へ軍勢を進めていた。ところが9月、浅井・朝倉両氏の軍勢が突如近江の坂本にあらわれ、京都を臨む姿勢を見せたことから、信長は急いで両氏を攻めあげたが、両氏は比叡山延暦寺に逃げこむ姿勢をみせた。これに対し信長は、延暦寺衆徒に見方になるように申し出たものの、それを拒まれた上に、大阪本願寺までが、浅井・浅倉両氏と手を結び、信長は窮地に追い込まれることとなる。その結果、信長は浅井・朝倉両氏と講和を結ぶことで窮地を脱することができたが、この講和は信長にとっては屈辱的といえ、この恨みが比叡山延暦寺焼き討ちの直接的な原因となったといわれている。 1571年9月、信長は近江の一向一揆を攻めるようなふりをして、延暦寺衆徒が油断したときに、湖を渡り坂本の市街を放火した。そして、日吉大社、延暦寺三塔十六谷の堂舎を残らず焼き払った。信長の伝記である『信長公記』によると、僧や俗人、子どもにいたるまで一人ひとりの首が切られ信長の目にさらされたという。死者の数は数千にも及ぶとされている。
参考
- 『図解雑学 戦国史』(2005)ナツメ社
- 比叡山延暦寺