イラン革命
出典: Jinkawiki
2009年1月6日 (火) 16:39の版
1978年にホメイニらを指導者として勃発し、翌年、独裁政権パーレビー王朝(パフラビー)を倒した革命。その後、ホメイニを最高指導者としたイラン-イスラム共和国が成立。イスラム教に基づく共和国を樹立。
1978~79年イランのパフラビー王制を倒してイスラム共和制を樹立した革命。M. R.パフラビー国王(在位1941~79)は,いわゆる「白い革命」によって上からの急激な近代化政策を強行したが,地主層や宗教指導層が反撥。73年の石油危機を契機に打出した経済成長政策も失敗して,かえってインフレなど混乱が増大した。78年1月以降反国王デモやテロ事件が全国的に続発。これに対して国王は同年11月軍人内閣を発足させ弾圧を強化したが,反政府運動は熾烈となり,パリ亡命中のホメイニ師の指導のもとに王制打倒を叫ぶにいたった。79年1月国王は国外に脱出,王制最後のS.バクチアル内閣も瓦解した。国民投票の結果,4月1日イスラム共和制が初代最高指導者ホメイニ師のもとに宣言された。初代大統領はA.バニサドル。
1978 コム弾圧事件
聖地コムでの学生デモをきっかけに、パーレヴィ王政への怒りが爆発。暴動が全国規模に拡大、国民的な蜂起となった。
1979年1月 王政崩壊 国王は国外脱出。
1979年2月 革命政府の樹立 パリに亡命中の宗教指導者ホメイニ師が帰国、革命政府を樹立した。 最初、革命政府は民族主義派や社会主義者の混成だった。 海外では革命を引き金に原油価格が急騰、第2次石油ショックが発生。
1979年11月 テヘラン米大使館占拠・人質事件 発生 パーレヴィ王政を支援していたアメリカに対する民衆の怒りは根強く、イスラム学生たちが在テヘランのアメリカ大使館を乗っ取り、大使館員を人質に取り、444日間立てこもる。 この事件でアメリカはイランと断交。
1980 イラン・イラク戦争発生。
1981
「法学者の統治」論に基づき、イランは、宗教上の最高指導者が立法・行政・司法を超える監督権を持つイスラム共和国となった。
その後イランは「革命の輸出」を唱えて、欧米諸国のほか周辺イスラム諸国からも警戒されることになった。