前島密

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 前島が明治政府に出仕して間もない1870年(明治3年)、上司の大隈重信から、鉄道の建設費と営業収支の見積りを作るよう命じられた。  前島が明治政府に出仕して間もない1870年(明治3年)、上司の大隈重信から、鉄道の建設費と営業収支の見積りを作るよう命じられた。
   
- 当時わが国には、その標準となるような資料は全くなかったが、彼は苦心の末に精密な計画案を作り上げた。前島はこの案に「鉄道臆測」と名づけ、のちにこれを見た外国人はその的確さに敬服したという。品川横浜間に鉄道が仮開業したのは1872年(明治5年)5月、新橋横浜間の正式開業は9月のことあった。+ 当時わが国には、その標準となるような資料は全くなかったが、彼は苦心の末に精密な計画案を作り上げた。前島はこの案に「鉄道臆測」と名づけ、のちにこれを見た外国人はその的確さに敬服したという。品川横浜間に鉄道が仮開業したのは1872年(明治5年)5月、新橋横浜間の正式開業は9月のことであった。

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 前島密は明治のはじめ、日本に郵便の仕組みを築き、「日本近代郵便の父」と呼ばれる。現在でも1円切手の肖像として有名。 前島密は郵便の創業者としてその名を不動のものとしているが、郵便関連のほか、江戸遷都、国字の改良、海運、新聞、電信・電話、鉄道、教育、保険など、その功績は多岐にわたる。

目次

前島密

 前島密は天保6(1835)年1月7日に、中頸城郡津有村下池部(現・上越市大字下池部)の地主である上野助右衛門の次男・房五郎として生を受ける。上野家はその地域で300年も続く名家で、造り酒屋も営んでいた。しかし、密誕生の半年後には父親が病没。母親が裁縫などの内職を続けながら、錦絵や往来物(江戸時代の教科書のこと)を使い、密に教育を施したという。

 母親の支援を受けながら成長した密は、より多くの知識を求め、嘉永元(1848)年13歳の時に江戸へ遊学、オランダ医学と蘭学、英語を修める。それから6年後の嘉永6(1853)年、日本の開国を求めるペリーが浦賀に来航。日本が動乱の時代を迎えた当時、密は19歳になっていた。久里浜でペリーと会見する接見役の井戸石見守の従者として浦賀を訪れた密は、沖に停泊している黒船や海軍の様子を見て、日本の海防に関心を持ち、さらに西洋砲術や長沼流兵法、気関学、航海術の研究を始める。

 その後、密は日本の海防の実情を知るために、日本の主要な港湾の調査をはじめる。全国の2/3を踏査し終えた頃、密は31歳になっていた。翌慶応2(1866)年、32歳で幕吏・前島家の養子となり、密は政治の表舞台に登場することとなる。


業績

1.漢字廃止を建議

 前島は、1866年(慶応2年)に「漢字御廃止之議」という建議書を将軍徳川慶喜に提出した。前島は漢学をはじめ、蘭学や英学に通じており、早くから漢字漢文を学ぶことによる時間や労力の浪費を憂慮しており、漢字を廃止し国字である仮名を常用すべきであるとしていた。

 「国家の大本は国民の教育にあり、その教育は士民を論ぜず、あまねく国民に施し、普及させるにはなるべく簡易なる文字文章を用いなければならぬ」 「すべて学問は、その真理を理解することにある。そのためには、わが国においても、西洋諸国のごとく音符字(仮名)を用いて教育し、漢字を用いることなく、ついには日常の文章にも漢字を廃止するように致したい。」と論じ、様々な具体例を示して、漢字漢文を常用するための弊害を述べ立てた。


2.江戸遷都を建言

 明治政府は新しい首都をどこにするか検討していた。前島は、1868年(慶応4年)に大久保利通の大阪遷都論を読んで、これに対し、遷都の地はわが国の中央にあたる江戸でなければならないと大久保に建言書を送った。 

 この意見所は大久保へと届き、それを読んだ大久保は大いに感銘を受けたという。やがて天皇の江戸行幸、遷都は実現するが前島の建言がどれほど影響をおよぼしたかは明らかではない。


3.鉄道敷設の立案

 前島が明治政府に出仕して間もない1870年(明治3年)、上司の大隈重信から、鉄道の建設費と営業収支の見積りを作るよう命じられた。    当時わが国には、その標準となるような資料は全くなかったが、彼は苦心の末に精密な計画案を作り上げた。前島はこの案に「鉄道臆測」と名づけ、のちにこれを見た外国人はその的確さに敬服したという。品川横浜間に鉄道が仮開業したのは1872年(明治5年)5月、新橋横浜間の正式開業は9月のことであった。


4.郵便創業

 1871年(明治4年)3月1日(新暦4月20日)、東京大阪間で官営の郵便事業が開始された。これは前島の発議によるものであった。    彼は、大蔵省や内務省の官僚としての仕事をこなしながら、1870年(明治3年)から11年間もの長い間郵政の長として、熱心にこの事業の育成にあたり、その基礎を築いた。そのため「郵政の父」とたたえられている。  「郵便」や「郵便切手」などの用語は、彼自身が選択した言葉である。


5.新聞事業の育成

 その当時、新聞は発達しておらず日刊紙としては『横浜毎日新聞』の1紙があるだけであった。しかしそのころ欧米では新聞が大きく発達し広く普及していた。欧米を巡遊した前島は、欧米社会を見聞して、広く世間の出来事を伝える新聞が必要なことを痛感し、その発達を助けるために、1871年(明治4年)12月新聞雑誌の低料送達の道を開いた。

 その翌年6月には、自ら出版者を勧誘し、太田金右衛門に『郵便報知新聞』(のちの報知新聞)を創刊させた。これに先だって2月には東京最初の日刊紙である『東京日日新聞』(のちの毎日新聞)が発刊され、3月には『日新真事誌』が発刊され、そこに『郵便報知新聞』が加わった。

 また、1873年(明治6年)には新聞の原稿は無封または開封に限り、4もんめまで無料とされ、全国各地のニュースが郵便によれば無料で発行元に届けられるよ うになった。そして、戸毎配送が実施されていない当時、新聞は郵便によって読者の下に配送された。


5.陸運元会社設立

 江戸時代から陸運業務と併せて信書送達を行なっていた定飛脚問屋(じょうびきゃくどんや)は、郵便事業に強く反対していたが、前島の説得を受け入れ、1872年(明治5年)6月に日本通運株式会社の前身となる陸運元会社を設立した。

 この会社は、全国の宿駅に誕生した陸運会社を統合し、郵便輸送を中核として貨物専門の近代的な通運会社として発展した。


6.海運政策の建議

 前島は、海運の大切なことに着眼し、函館では自ら廻送(かいそう)業者の手代に加わって、その実務を体験した。

 1872年(明治5年)日本帝国郵便蒸気船会社が生まれたのも、彼の意図によるものであった。

 1875(明治8年)、大久保利通は、前島の建言によって、画期的な海運政策を建て、岩崎弥太郎の郵便汽船三菱会社(当時「三菱商会」)を補助して、その政 策を進めることとなった。これが今日の日本郵船株式会社の前身であり、近代海運はこのときから始まったといわれている。


7.郵便為替

 明治5年、前島はイギリスでの経験から郵便創業の翌年、経済拡大には郵便為替の実施が必要だと大蔵省に建議したが運転資金や取り扱い者の技術的な問題もあって、採用には至らなかった。

 しかし彼の熱意により、1875年(明治8年)1月、郵便為替が始められた。


8.郵便貯金

 1875年(明治8年)5月、東京横浜の両地で郵便貯金の取り扱いが開始された。

 前島は、イギリスで郵便貯金が国民の生活や国家の発展に大きな役割を果たしているのを見て、わが国でもこれを実施することにした。しかし当時の国民には、金銭を一定の機関に預けるという習慣がなかったため、当初は、なかなか一般に理解されず、彼は私金を出して、それを貯金発端金として預けさせるなど、奨励には苦心した。


9.訓盲院の創立

 1876年(明治9年)に視覚障がい者の教育を目指す楽善会(らくぜんかい)に入会した前島は、杉浦譲(すぎうらゆずる)など同志の人たちとともに私金を出し合い、訓盲院の設立に力を尽くした。

 1879年(明治12年)に完成した訓盲院は、その後文部省へ移されたが、彼は引き続き同校の役員として、長くその運営発展に力を注いだ。 そのため1917年(大正6年)の皇后陛下行啓(ぎょうけい)の際、彼は特に召されて、お言葉を賜った。訓盲院は、現在の筑波大学付属盲学校の前身である。


10.勧業博覧会の開催

 維新後、前島は静岡藩において開業方物産掛(かいぎょうかたぶっさんがかり)として産業振興に取り組んだ経験を持ち、産業奨励に深い関心があった。大久保利通は前島の主張を取り入れ、勧業博覧会を内務省の所管として、1877年(明治10年)、東京上野で第一回勧業博覧会を開催し、前島を審査官長に命じた。この博覧会は最初の大規模な博覧会であり8月下旬から11月末まで開かれた。出品数は8万点をこえ、わが国の産業発達に大きな影響を与えた。


11.東京専門学校の創立

 1882年(明治15年)、早稲田大学の前身、東京専門学校が創立された。この学校は学問の独立を主張する大隈重信の発意で生まれたものだが、前島はその創立に参画してこれを助けた。その後、1877年(明治20年)に校長に就任し、財政の独立など経営上の困難な問題の解決にあたり、また校長を退いたのちも、長く同校の発展のために尽くした。


12.電話の開始

 1890年(明治23年)12月、東京・横浜市内とその相互間ではじめて電話の交換業務が開始された。電話事業については、1883年(明治16年)以来官営にするか民営にするか議論されていた。

 前島は1888年(明治21年)逓信大臣だった榎本武揚(えのもとたけあき)の依頼で逓信次官に就任すると、官営に意見を統一し電話事業を開始した。


晩年

 明治43(1910)年、75歳の前島はほとんどの役職を辞して、若い頃に訪れた九州各地を巡る旅に出る。そののち神奈川県西浦村(現横須賀市芦名)に別邸「如々山荘」を建て、そこで隠遁生活をはじめた。この山荘で前島は周辺の児童や村民と共に生活し、海や山で遊んだりと安穏な時間を過ごしたという。      7年後の大正6(1917)年、長年連れ添った妻・仲子が死去。以来、落胆した密はその後、健康が優れなくなり、2年後の大正8(1919)年4月27日に死去。84歳の生涯を閉じた。


参考

http://www.japanpost.jp/corporate/founder/(日本郵政HP)

http://www.city.joetsu.niigata.jp/kankou/ijin/ijin6.html(上越市観光HP)

人物叢書 新装版 『前島 密』 著:山口 修 編集:日本歴史学会 出版:吉川弘文館


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