アメリカ独立戦争
出典: Jinkawiki
2009年1月19日 (月) 01:26の版
ヨーロッパ人による北アメリカ大陸への移住は17世紀にいっそう進んだ。 スペイン人、オランダ人、フランス人などが入植したほか、イギリスからの入植は1607年、ヴァージニアにジェームズタウンを建設してから本格化した。 ネイティブアメリカン(インディアン)との熾烈な争いを繰り返しながら、1650年に5万人だったイギリス植民地の人口は、1700年に25万人に増え、独立の頃には250万人に達したと推定されている。
北米植民地の13州は、自給的農業や漁業、あるいは貿易を基盤に置く北部と、タバコや藍など大農業経営にもとづく南部といった地域ごとの社会構造の差はあったが、植民地議会を持ち、自主の気風が強まった。 またイギリス本国からの大きな干渉を受けることなく、密貿易の黙認さえあった。 しかし七年戦争が終結したのち莫大な負債を抱えた本国政府は、「有益なる怠慢」といわれた植民地への不干渉主義を捨て、植民地への支配を強化しようとした。 1765年に印紙法が施行され、植民地における証書などへの課税図られると、植民地議会側は「代表なくして課税なし」として、すなわち植民地からの代表者がいない本国議会には、植民地に課税する権利はないとして強く批判した。 印紙法はまもなく廃止されたが、その後も本国政府による課税の試みは続いた。 1773年に茶法が成立されると両者の対立は激化し、植民地住民がボストン港に停泊していたイギリス船から積荷の茶を海に投げ捨てるという「ボストン茶会事件」が起こった。 本国側がこれに対し制裁措置をとると、翌年秋、各植民地の代表がフィラデルフィアで第一回大陸会議を開いて抗議を行った。 そして1775年4月、レキシントンとコンコードでイギリス軍と植民地兵が衝突した。 当初は植民地側の3分の1ほどが反乱側についたにすぎず、まとまった軍組織もなかった。 だが8月に本国が植民地側を「叛徒」(はんと)と規定し、翌年にトマス・ペインの「コモン・センス」が出版されると、一気に独立の気運が高まった。 そして1776年7月4日、大陸議会は「独立宣言」を採択した。
戦争が長期化していくなか、アメリカ側はフランスやスペインなどの支持を得ることに成功し、ヨーロッパ各地からも多くの義勇兵がアメリカ側に立って参戦した。 こうして本国に対して有利に戦いを進めたアメリカ軍は、1781年10月のヨークタウンの戦いで決定的な勝利をおさめた。 1783年のパリ条約でイギリスはアメリカの独立を認め、ミシシッピ川以東のルイジアナを譲渡した。 13植民地はそれぞれ憲法を制定し、さらに1787年、各々の州の自治と、三権分立および人民主権を特徴とする合衆国憲法が採択された。 この点でアメリカの独立は、イギリスに由来し植民地時代に育まれた理念を現実のもとした市民革命でもある。 そして長期的にみれば、南北アメリカ諸国の独立のさきがけでもあった。
ヨーロッパ史への扉 晃洋書房