冠位十二階の制
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- | 冠位十二階の制 | + | ==概略== |
推古十一年十二月五日(603年)に日本で初めて作られた冠位制で聖徳太子・蘇我馬子らが制定した。 | 推古十一年十二月五日(603年)に日本で初めて作られた冠位制で聖徳太子・蘇我馬子らが制定した。 | ||
冠位十二階はそれまでの氏族単位の王権組織を再編成しようとしたもので、豪族を序列化し、氏や姓にとらわれることなく、優秀な人材を登用することを目指した。つまり、身分をそれまでの氏族から個人単位に移したということが言える。冠位の任命は天皇が行うことで、豪族に対する天皇の権威向上を図ったとされていて、位は功労によって昇進した。また蘇我氏は皇室と共に位を授ける側にあったという。 | 冠位十二階はそれまでの氏族単位の王権組織を再編成しようとしたもので、豪族を序列化し、氏や姓にとらわれることなく、優秀な人材を登用することを目指した。つまり、身分をそれまでの氏族から個人単位に移したということが言える。冠位の任命は天皇が行うことで、豪族に対する天皇の権威向上を図ったとされていて、位は功労によって昇進した。また蘇我氏は皇室と共に位を授ける側にあったという。 | ||
- | 冠名と色について | + | ==冠名と色について== |
冠名は儒教の徳目を参考にして、地位の高い順から、徳(とく)、仁(じん)、礼(れい)、信(しん)、義(ぎ)、智(ち)の六種を大小に分けた、大徳(だいとく)、小徳(しょうとく)、大仁(だいにん)、小仁(しょうにん)、大礼(だいらい)、小礼(しょうらい)、大信(だいしん)、小信(しょうしん)、大義(だいぎ)、小義(しょうぎ)、大智(だいち)、小智(しょうち)の12階としている。またそれぞれに紫、青、赤、黄色、白、黒と、その濃淡で、その位にそって色も決められていて、階ごとに決まった色の絹を縫い付け、髪は頂にまとめてくくり、袋のように包んで縁飾りをつけた。また、元日だけは髪飾りをさした。自分の地位以上の服色をまとうと罪に問われることになるが、上位のものは、位以下の色を使うことは許された。このようなことから奈良時代は、「色彩歓喜の時代」ともいわれた。しかし、百姓や無官の人は、黄色と黒に限定されていた。 | 冠名は儒教の徳目を参考にして、地位の高い順から、徳(とく)、仁(じん)、礼(れい)、信(しん)、義(ぎ)、智(ち)の六種を大小に分けた、大徳(だいとく)、小徳(しょうとく)、大仁(だいにん)、小仁(しょうにん)、大礼(だいらい)、小礼(しょうらい)、大信(だいしん)、小信(しょうしん)、大義(だいぎ)、小義(しょうぎ)、大智(だいち)、小智(しょうち)の12階としている。またそれぞれに紫、青、赤、黄色、白、黒と、その濃淡で、その位にそって色も決められていて、階ごとに決まった色の絹を縫い付け、髪は頂にまとめてくくり、袋のように包んで縁飾りをつけた。また、元日だけは髪飾りをさした。自分の地位以上の服色をまとうと罪に問われることになるが、上位のものは、位以下の色を使うことは許された。このようなことから奈良時代は、「色彩歓喜の時代」ともいわれた。しかし、百姓や無官の人は、黄色と黒に限定されていた。 | ||
『日本書紀』の603年に冠位十二階を定めたときの記述には、12の位階の名前は書かれているが、それぞれの位階に対応する色の名前は書かれていない。 | 『日本書紀』の603年に冠位十二階を定めたときの記述には、12の位階の名前は書かれているが、それぞれの位階に対応する色の名前は書かれていない。 | ||
+ | ==実態== | ||
しかしながらこのような制度は移行期の制度であったため、大臣や大連といった最上級の姓に属する豪族は大徳よりも上位に置かれていた。また、臣や連以外の姓よりも大徳が輩出された例は無く、村主や村首以下の姓で小徳を輩出した例も無い。さらに遣隋使で活躍した小野妹子が大徳に昇進したという例外を除いて、冠位の昇進の記録はわずかであるということからも、氏姓によって与えられる位階に一定の制約があったとする見方も存在している。 | しかしながらこのような制度は移行期の制度であったため、大臣や大連といった最上級の姓に属する豪族は大徳よりも上位に置かれていた。また、臣や連以外の姓よりも大徳が輩出された例は無く、村主や村首以下の姓で小徳を輩出した例も無い。さらに遣隋使で活躍した小野妹子が大徳に昇進したという例外を除いて、冠位の昇進の記録はわずかであるということからも、氏姓によって与えられる位階に一定の制約があったとする見方も存在している。 |
2009年1月19日 (月) 01:45の版
概略
推古十一年十二月五日(603年)に日本で初めて作られた冠位制で聖徳太子・蘇我馬子らが制定した。 冠位十二階はそれまでの氏族単位の王権組織を再編成しようとしたもので、豪族を序列化し、氏や姓にとらわれることなく、優秀な人材を登用することを目指した。つまり、身分をそれまでの氏族から個人単位に移したということが言える。冠位の任命は天皇が行うことで、豪族に対する天皇の権威向上を図ったとされていて、位は功労によって昇進した。また蘇我氏は皇室と共に位を授ける側にあったという。
冠名と色について
冠名は儒教の徳目を参考にして、地位の高い順から、徳(とく)、仁(じん)、礼(れい)、信(しん)、義(ぎ)、智(ち)の六種を大小に分けた、大徳(だいとく)、小徳(しょうとく)、大仁(だいにん)、小仁(しょうにん)、大礼(だいらい)、小礼(しょうらい)、大信(だいしん)、小信(しょうしん)、大義(だいぎ)、小義(しょうぎ)、大智(だいち)、小智(しょうち)の12階としている。またそれぞれに紫、青、赤、黄色、白、黒と、その濃淡で、その位にそって色も決められていて、階ごとに決まった色の絹を縫い付け、髪は頂にまとめてくくり、袋のように包んで縁飾りをつけた。また、元日だけは髪飾りをさした。自分の地位以上の服色をまとうと罪に問われることになるが、上位のものは、位以下の色を使うことは許された。このようなことから奈良時代は、「色彩歓喜の時代」ともいわれた。しかし、百姓や無官の人は、黄色と黒に限定されていた。 『日本書紀』の603年に冠位十二階を定めたときの記述には、12の位階の名前は書かれているが、それぞれの位階に対応する色の名前は書かれていない。
実態
しかしながらこのような制度は移行期の制度であったため、大臣や大連といった最上級の姓に属する豪族は大徳よりも上位に置かれていた。また、臣や連以外の姓よりも大徳が輩出された例は無く、村主や村首以下の姓で小徳を輩出した例も無い。さらに遣隋使で活躍した小野妹子が大徳に昇進したという例外を除いて、冠位の昇進の記録はわずかであるということからも、氏姓によって与えられる位階に一定の制約があったとする見方も存在している。
http://www.wanogakkou.com/life/00100/00100_004_02.html http://ja.wikipedia.org/wiki/ 山川出版社 小説日本史 用語集 http://www.pluto.dti.ne.jp/~miopon/shoki.html