野口英世

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 しかし、アフリカで黄熱の研究中、自ら感染し1928年(昭和3)、51歳の若さで亡くなった。  しかし、アフリカで黄熱の研究中、自ら感染し1928年(昭和3)、51歳の若さで亡くなった。
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野口英世の生涯

野口英世(のぐち ひでよ)は日本の細菌学者である。1876年(明治9)11月9日、父 佐代助・母 シカの長男として福島県翁島村(現在の猪苗代町)で生まれ「清作」と名付けられた。1歳の時に囲炉裏に落ち、左手を大火傷する。手に火傷を負った幼い清作(英世の)は、百姓になることができないため、学問で身を立てて行くために、勉学に勤しんだ。その結果小学校時代では、著しく優秀な学生が、先生の代わりに授業をするという「生長」になった。また、父親が大酒飲みだったのもあり、清作の家は貧乏でもあったが、母シカの清作に対する熱い愛情と、猪苗代高等小学校の先生である小林栄先生の私財を投げ打ってまでの援助があり、清作は何とか猪苗代高等小学校へ入学することができた。


 19歳の時、医師免許を取りに行くために上京しました。そして、その別れ際に、 「志しを得ざれば、再び此地を踏まず」 という言葉を残した。  

 東京に出た野口清作(野口英世は)は、会津若松の会陽医院で縁を得た 高山歯科医学院(現在、東京歯科大学)の血脇守之助先生の元で医学を学び、見事、わずか20歳という若さで医師免許を取得した。その後、野口清作は、当時医学会で世界的に有名であった北里柴三郎を所長とする伝染病研究所の助手となった。


 その頃 、「当世書生気質」という医学生を主人公にした小説を、野口清作は読んだ。そして、その主人公の名前は「野々口精作」といい、野口清作の名前に、非常に似ていた。また、その主人公の短所が非常に野口英世と似ているということもあり、その短所を直す意味も含め、名前を清作から英世へと改名した。


 野口英世は、伝染病研究所内で、来日中に研究所に訪れたシモン・フレキスナー博士と知合ったり、横浜の海港検疫所に派遣中にペスト患者を発見、隔離するなどの功績により、清国(現在の中国)へ行くことになったりと、徐々に世界の野口英世への足掛かりを作っていった。


 1900年(明治33)、単身アメリカへ渡った英世は、ロックフェラー医学研究所などで、数々の研究成果をあげ、アメリカやヨーロッパなど、世界に名をなす人となった。  この間、日本の学位も取り、ただ一度だけ帰国し、大歓迎を受けた。        しかし、アフリカで黄熱の研究中、自ら感染し1928年(昭和3)、51歳の若さで亡くなった。





千円札の顔

  野口英世は2004年11月1日に発行された日本銀行券E千円券の肖像画になっている。 千円札に使用される博士の肖像の写真は、1918年に中南米のエクアドルで黄熱病の病原体を発見した頃に撮影されたもの。この頃が、博士が研究者として最も脂がのっていた時期で、博士自身、知人へ写真を送る際に、好んでこの写真を使い、そこには直筆のサインをしていた。



参考文献

・野口英世 中山茂著 朝日新聞社 1989

・www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/j/rekishi/noguchi/hideyo.htm  

・Copyright(c)1999-2008 Fukushima branch, Bank of Japan, All right reserved  

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