足高の制
出典: Jinkawiki
(版間での差分)
2009年1月22日 (木) 16:53の版
1723年(享保8年) 徳川吉宗
役職ごとに基準高を定め、その役職に任命された者の家禄(代々家に伝わる俸禄)が基準高に達しない場合、在職期間中に限って不足分を支給するものである。
たとえば家禄500石の旗本が基準高3000石の町奉行に就任した場合、在任中は2500石の足高を受けるのである。 1920石で町奉行になった大岡忠相は1080石の足高を受けている。
家禄は幕府の役職就任に対する給付として与えられるものであり、役職に伴う諸負担は家禄の中から支払われるべきものであった。つまり、家禄の高いものが負担の多い要職につく仕組みだったのである。
しかし、家禄の高い層につねに有能な人材がいるわけではなく、低い層の者を登用することが多くなった。 このため、1665年に役職ごとに一定の役料を支給する方法を、1689年には役職ごとに一定の基準家禄を設定し、これに満たない者には在職中に限り役料を支給するという方法を採用した。
しかし、これらは支給される役料が一定であったため、基準家禄を大きく下回る者に対しては十分な効果を発揮しなかった。
そこで吉宗は、あらたに足高の制を採用し、どんなに低い家禄の者も、基準高の高い役職に就任している間は、幕府が差額をすべて足高することにしたのである。 この制度により、小禄の者も在職中、任務を遂行できるようになった。
足高は、家禄の加増ではなく、個人への支給であり、支給期間も在職中と限られていたため、幕府にとっては大きな負担にはならない制度であった。 家格にとらわれない、能力主義・個人主義を導入した点において、官僚機構整備の重要な柱となった。