源義経

出典: Jinkawiki

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目次

時代

平安時代末期、都をゆるがす2つの事件、保元の乱と平治の乱が起こった。事件はともに皇位継承、摂関や院の近臣らの相克に端を発しており、同様の政争はこれまでにもあった。しかし、そこに源氏、平氏という「武門」が強くからみ、「武力解決」という荒々しい方法がとられた点で異なっていた。これを機に、武家が政治の場に台頭していく。

2つの乱のうち、平家がまず全盛を迎え、やがて源氏が息を吹き返し、激烈な争乱の末に本格的な武家政権が誕生することになる。

源義経が生きたのは、このように世の中が大きく移り変わる激動の時代であった。

誕生

保元の乱から約3年後の平治元年(1159)、源氏の棟梁である源義朝の九男として牛若、後の源義経は生まれた。母は近衛天皇の皇后九条院に仕えた雑仕(宮中で雑用を行う者)、常盤である。常盤は16歳で今若、18歳で乙若という牛若(義経)の兄を出産し、22歳の時に牛若、すなわち義経を出産した。

義経は鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟である。義経の母・常盤は身分が高くないため、義経は源氏の嫡流を継げるような立場にはなかった。父を同じくする兄弟であっても、義朝の正妻を母にもち、後の棟梁と目されていた頼朝とは歴然の差があったのである。

鞍馬の遮那王

義経の人生は、源氏が平治の乱で平家に敗れ、没落したところから始まる。誕生の翌年の永暦元年(1160)には父・義朝が横死し、数年後には母・常盤とも引き離され、一人洛北の鞍馬寺に入れられる。

乱の勝者の平清盛は、将来義経が僧になることを条件に、命だけは許した。

義経は奥州の藤原秀衡のもとに旅立つ16歳の時まで、鞍馬寺で過ごす。当時遮那王と称していた義経は、源氏再興の宿願成就のため、夜な夜な山中で兵法修行をしたという。

源氏、ついに起つ

反平家の火の手は、思わぬところから上がった。治承4年(1180)、穏健派と思われていた源三位頼政が、後白河法皇の皇子・以仁王を担いで反旗をひるがえした。頼政は平治の乱の際も平家に与し、平清盛との関係も悪くなかっただけに、衝撃は大きかった。

頼政の挙兵は大事には至らず、宇治川であえない最後を遂げた。しかし、平家打倒を呼びかける檄文は、不遇の年月を過ごしていた源氏の子らに届けられ、動乱の火種は撒かれた。伊豆では源頼朝が、木曽では源義仲が兵を挙げる。

宿命の兄弟、黄瀬川の対面

奥州藤原氏のもとにあった義経が頼朝の黄瀬川の陣に馳せ参じたのは、治承4年10月のことである。義経と頼朝は手をとり、涙ながらに協力を誓い合ったという。

父を知らず、母とも引き裂かれ、幼少から孤独であった義経にとって、頼朝は懐かしく慕わしい肉親であった。そして頼朝も弟を頼もしく受け入れた。しかし、兄のまなざしが肉親への情愛や後仇といったものを越えた、もっと遠いところを展望していることに、義経は気付かなかった。

義経の登場

寿永2年(1183)7月、平家は義仲の軍勢に猛然と迫られ、都落ちを余儀なくされた。義仲が京に入った後、世は鎌倉の頼朝と京の義仲、西海の平家という3つの勢力の争いとなる。そしてこのなかで最初に脱落したのが義仲であった。

頼朝は木曽勢に対し、討手を差し向ける。そして義経の登場となったのである。義仲追討を命じられた義経と範頼は、宇治・瀬田の二方面から挟撃し、義仲を近江の粟津に敗死させた。武勇頼もしく、折り目正しい義経は、一躍京で注目の的となった。

一ノ谷の合戦

一時は都落ちした平家であったが、徐々に息を吹き返し、福原まで歩を進めてきていた。源平合戦の大詰めである。

元暦元年(1184)2月、義経は範頼率いる大手軍(福原の東へ進追)と分かれ、搦手軍の主将として福原の西側を目指した。途中でさらに手勢を分け、山中の道なき道を進んで敵陣の要・一ノ谷の裏手の「鵯越」に向かう。大手軍、搦手軍が東西から福原へ攻撃をかけたところへ、さらに真後ろから突入する目算であった。

鵯越は獣しか通わぬといわれる急崖で、不意をつかれた平家方は総崩れとなり、海上の船に逃れることとなった。源氏方は勝利に沸き立つ。

宇治川に続き一ノ谷でも大功をたて、一躍英雄となった義経であったが、頼朝は労苦をねぎらって範頼を鎌倉に戻したのに対し、義経については京に取り残した。また範頼は国司に取り立てられたが、義経の戦功は認めてもらえなかった。

一方京では義経を称える声が高く、後白河法皇から左衛門少尉、検非違使の宣旨を受ける。しかし鎌倉では頼朝の許可なく任官を受けることは許されておらず、義経と頼朝の溝は深まっていく。

屋島の合戦

一ノ谷で甚大な打撃を被った平家であったが、西国一円と瀬戸内海の制海権はいまだ平家の手にあった。元暦元年(1184)8月、範頼が軍を発進させた。しかし無断任官などで頼朝を激怒させた義経には出陣の機会がなかなか与えられなかった。だが、範頼の進軍が停滞したことにより、ようやく義経に屋島攻めの命が下った。

義経は屋島の平家陣に背後から突入していく。正面からの攻撃を予想していた平家は義経の奇襲にまたも裏をかかれ、ついに屋島を見放してさらに西へ逃れていく。

壇ノ浦の合戦、平家滅亡

屋島の合戦後、平家は最後の拠点・長門彦島に逃れた。彦島の先は玄界灘、陸には範頼が待ち構えている。封じ込められた平家はここでの合戦に最後の望みをつないだ。

源氏方、平家方とも船を集結させ、海戦に望んだ。はじめ、平家の奮闘が義経ら源氏を苦戦させた。しかし、船頭を射られた平家方の船は動きを失い、形成は逆転した。

もはやこれまでと悟った平家一門は、壇ノ浦の海に次々と身を投げた。幼い安徳天皇も祖母の二位尼(清盛の妻)とともに海に沈み、三種の神器(鏡・剣・玉)のうち宝剣は結局発見されなかった。こうして源平の長き戦いは終結を迎えた。

逃避行

平家を滅ぼした後、義経は兄からの温かい歓迎を期待して鎌倉に凱旋した。しかし、現実は鎌倉入りも許されず、京に帰らざるを得なくなった。そしてまもなく反逆者として逃避行を余儀なくされることになる。

このまま京にいることに危険を感じた義経は吉野を目指した。しかしここでも追討を受け、義経主従は頼朝方の目から逃れるため京都や奈良で散り散りに潜伏する。その後義経は藤原秀衡を頼って奥州・平泉に逃れることを決意した。

英雄の最期

藤原秀衡は義経らの平泉入りを歓迎し、頼朝からの圧力にも動じることなく義経をかくまい続けた。しかし文治3年(1187)10月、秀衡は病没してしまう。

秀衡の後を継いだ泰衡であったが、頼朝からの再三の圧力に屈して父の遺言を破り、義経主従のいる衣川館に攻め入った。義経は持仏堂に入りお経を読み終えた後、自害し世を去った。文治5年(1189)4月、31歳の若さであった。

参考

上横手雅敬 監修 「図解雑学 源義経」 ナツメ社

奥富敬之 監修 「源義経の時代」 NHKシリーズ

菊池紳一 編者 「源義経の謎」 新人物往来社

http://www.bashouan.com/jtYoshitune.htm

http://sky.geocities.jp/gentiana_009/yoshitsune_benkei/index.html


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