高野長英

出典: Jinkawiki

(版間での差分)

2009年1月25日 (日) 12:58の版

高野長英(1804年~50年)は江戸時代後期の蘭学者・医者である。通称を卿斎(けいさい)という。陸奥水沢(岩手県の奥州市)の出身で、父は後藤実慶(ごとうさねのぶ)である。シーボルトに医学・蘭学を学び、江戸で開業する。また蛮社の獄で永牢の処分を受けるが、入獄中に火災で逃亡し、のちに追われて1850年10月30日47歳のときに江戸で自殺し、その生涯を閉じた。主著には『戊戌夢物語』があり、モリソン号打ち払いの無謀さを夢の中での知識人の討議の形で批判した。

生涯

高野長英は1804年(文化元年)に奥州水沢(岩手県奥州市)で、仙台藩水沢留守家の家臣である後藤実慶の三男として生まれた。しかし長英が9歳のときに父は亡くなってしまい、母親の実家に戻って叔父である高野玄斎(玄斎は杉田玄白の門人である)の養子となった。養父も祖父も医者という周りの環境もあってか、長英は蘭方医学に対する関心を高めていった。長英は17歳で兄の湛斎、従兄弟の遠藤養林と一緒に江戸に出て、杉田伯元(杉田玄白の養子)の門に入った。その後は吉田長叔(よしだちょうしゅく)の弟子となり、蘭学を学び始める。(杉田の門からどういういきさつで吉田の弟子に移行したかは曖昧でよく判明されていない)後に、19歳の1822年の時に、長叔から一字をもらって、卿斎から長英と改名する。その三年後、1825年には長崎に行き、シーボルトの鳴滝塾(なるたきじゅく)で蘭学を学び、翌年23歳で蘭語論文をシーボルトに出し、ドクトルという称号をもらう。 1828年にはシーボルト事件が起こり、シーボルトの多くの門人が捕まるが、長英は長崎には居なかったため難を逃れることになる。その後は自分で蘭学塾を開こうと。広島、尾道、大坂を経て京都にて開業した。1830年には麹町の貝坂で開業し、「大観堂」を開く。ここで蘭学の研究に励み、多くの本を書いた。またこの頃渡辺崋山らとともに尚歯会に参加していた。1838年には『戊戌夢物語』を著してモリソン号打ち払いの無謀さを主張し、幕府の異国船打ち払いの策を批判した。すると翌年の1839年には、蛮社の獄で幕府批判の罪にとわれて渡辺崋山らとともに捕らえられた。『戊戌夢物語』による幕府批判の罪で永牢の処分を受けた長英は、その後1844年の火災(放火による)で脱獄するも1850年10月30日には、幕府の役人におそわれ、47歳という年で自刃した。

戊戌夢物語

「イギリスは日本に対し、敵国には之無く、謂わば付合も之無き他人に候処、今般漂浪人を憐み、仁義を名として、態々送来候者を、何事も取合申さず、直に打払に相成候はば、日本は民を憐まざる不仁の国と存ずべく候。(『詳説日本史史料集』(山川出版社))」


1838年に長英が著述したものであるが、アメリカ船モリソン号が漂流した日本人を送り帰しながら交易を求めて来航してきた時に、幕府の打ち払い論に対して、夢物語の形式を借りて自分の考えていること、思っていることを知識人の討論の形として、しかも夢に託して書いたもの。問1や2ではイギリスの国情やモリソンのことに関して質問している。問3では長英の思想や考えを示している。また問4では打ち払いのことに関して、問5ではその取り扱いについてどうしたら良いのかということが質問されている。これに対して反論書も書かれており、『夢物語評』や『夢夢物語』などがある。またこれは写本で広まり、長英投獄の要因となる。


参考文献

http://www.city.oshu.iwate.jp/syuzou01/jinsei/index.html

http://100.yahoo.co.jp/detail/%E9%AB%98%E9%87%8E%E9%95%B7%E8%8B%B1/

http://www.sumitomo.or.jp/jp0423.htm

日本史B用語集 山川出版

詳説日本史B 山川出版


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