イタイイタイ病

出典: Jinkawiki

(版間での差分)

2009年1月25日 (日) 15:35の版

目次

発見

富山県にゆったりと流れる全長120km川、神通川がある。この川が富山平野に入るあたりで、西へ流れる牛首用水と東へ流れる新保用水2つの用水に分かれる。イタイイタイ病は、この2つの用水と熊野川、井田川に囲まれた紡錘形の地帯で集中的に発生した。

神通川は昔からよく豪雨時によく堤防が壊れた。堤防改修工事が完成するまで発生した洪水は92回とされている。扇状地にあたるこの地域では、山岳・丘陵部から急流によって運ばれてきた土砂が川底に堆積し、堤防が決壊すたびに、田や畑を覆った。この土砂の中に含まれていたカドミウムが土壌を汚染し、農作物などを通じて住民の体内に蓄積され、さらに飲料水や灌漑用水としての利用が加わり、イタイイタイ病を発生させたのである。

神通川左岸にある荻野病院の荻野茂次郎は、1935年ごろからこの奇病に注目し、購読が原因ではないかと周囲にもらしていた。1946年に荻野昇は中国から復員して、父・茂次郎の稼業をついで診療を始めたが、驚いたことに外来患者の7~8割までが神経痛様の患者であった。その後、荻野昇は神通川に目を向けるようになった。荻野昇の調査結果によると、1929年ごろから、上流の神岡鉱山(現・三井金属鉱業神岡鉱業所)の工場排水による農業被害が急増、農民たちは被害防止を求めた。同鉱山は1932年、鉱毒流入を防ぐ装置として洗鉱沈澱施設を設けることを約束し、長い間続いたトラブルはひとまず解決した。

しかし、1937年ごろから再び被害が激化、富山県が1940年に応急的な鉱毒流入防止施設を設置した。当時の被害面積は約4000ha(1ha=10000㎡)、小型沈澱池の設置ヵ所数は600。この施設は鉱毒の流入防止にかなりの効果があったが、県は経費の負担を続けられなくなり、事業をストップした。このため、農業被害は天候不良も重なって一層増大し、翌1941年、農林省農事試験場技師、小林純理学博士の調査によると、被害が特にひどかった神通川中流地域の町村だけで稲の減収は6848石余(1石=1000合)にのぼった。

この調査では、農業被害の原因として、上流の神岡鉱山から神通川に排出される酸化鉛、酸化亜鉛があげられた。しかし、調査結果は太平洋戦争のさなかとあって、報道されず、鉱毒被害を予防する対策も何ひとつ講じられなかった。



症状

この病気になるのは主として婦人で、まず腰痛、背痛、四肢痛、関節痛、恥骨部疼痛など全身各部の痛みを訴えた。痛みは次第に激しさを増し、やがて骨にヒビが入り、遂には全身の骨が折れ、最後まで「痛い、痛い」と苦しみ、喘ぎ、衰弱して死んでゆく悲惨な病気である。

神通川左岸にある荻野病院の荻野昇は診察を始めて首をかしげた。これまで、文献で読んだことのない、神経痛様の症状を持つ患者が7~8割を占めていたからである。60歳を過ぎた重症のある患者は全身の皮膚が黒ずみ、助骨はやせて骨が洗濯板のようにごつごつしていた。下肢は折れ曲がり歩けない。脈をとろうとして腕を持つと、ボッキンと鈍い音がして骨が折れ、激しい痛みを訴えた。

患者は床の中で身体の重みのため下部に痛みをおぼえる。そこで、身体の向きを変えようとするのだが、これが大変痛い。重症の患者は呼吸や話をするのにも疼痛がはしり、咳をしただけで肋骨が折れることさえある。荻野昇の解剖例では全身72ヶ所が骨折したケースもあるという。骨のカルシウムが抜けてもろくなったり、骨の委縮がすすんだりするため、全身の骨がもろくなってしまうのである。身長も10cmから30cm縮む。

一家の主婦がこの病にかかり、寝込んだために家庭がめちゃくちゃになった例が農村のあちこちで起こった。家計が苦しく、治療も十分にできない。猫の手も借りたいほど農作業の忙しい時期に、何一つ手伝うことのできないふがいなさ。夫婦生活のヒビ。なかには、あまりの痛みと精神的苦しみに耐えかねて、いっそ死んでしまおうと決意し、川の淵までやっと歩いて行ったものの、「孫のことなど考えると死に切れなかった。」と涙ながらに告白する患者もいた。

荻野昇が往診を求める患者の症状を看護婦に聞くと、看護婦は「痛い、痛いと言っているそうです。」と答える。連日こうしたやりとりを繰り返しているうちに、この病気を「痛い、痛い」という合言葉で呼ぶようになった。ある日、富山新聞の記者が荻野昇から、この話を聞き、新聞に「イタイイタイ病」と書いて載せた。やがてこれが病名として定着した。

患者数については、1969年(昭和44)制定の「公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法」およびこれを引き継いだ1973年制定の「公害健康被害補償法」によって認定された患者数は194人(うち死亡者188人)となっている(2008年4月末現在)。それ以前の患者については実態がよく把握されておらず、第二次世界大戦後よりこの時期までに女性のみで100人近い死亡者が出たものと推定されている。



裁判までの経緯

荻野昇は患者の発生地点が神通川流域の一定地域に集中することに注目して、研究を進めた。そして、1957年の富山県医学会で「イタイイタイ病は神通川の水中に含まれている亜鉛、鉛などの重金属によって引き起こされるものである。」というイタイイタイ病鉱毒説をはじめて発表した。

さらに、1961年には荻野昇は吉岡金市と連名で、日本整形外科学会で初めてイタイイタイ病カドミウム説を発表した。同年富山県は「富山県地方特殊病対策委員会」を発足させた。1963年には厚生省が「医療研究イタイイタイ病研究委員会」を、文部省が「機関研究イタイイタイ病研究班」を発足させた。この3つのグループは合同会議を開き、「イタイイタイ病の原因物質としてカドミウムの容疑が濃いが、…カドミウムの単独原因説には無理があり、…栄養上の障害も原因のひとつと考えられた」とする「カドミウム+α説」を発表した。

イタイイタイ病のカドミウム説が発表されても、被害者らの運動はなかなか起こらなかった。その理由は「騒ぐと米が売れなくなる」、「嫁のもらい手がなくなる」、「相手が大企業の三井である」からなどであった。被害所の家族や患者の遺族を中心とする住民は、1966年にイタイイタイ病対策協議会を結成し、会長に小松義久を選出した。1967年5月と8月にイタイイタイ病対策協議会は三井金属鉱業と集団交渉を持ったが、三井側の態度は冷やかであり、傲慢な態度であった。 1967年8月に富山県婦中町出身の島林樹弁護士と接触を持ち、10月には新潟水俣病裁判の現場検証に参加し、新潟水俣病患者との交流で激しい感動を覚えた小松会長らは、12月に提訴を決意した。

1968年1月には、全国から集まった20人の弁護士からなり、富山県高岡市の正力喜之助弁護士を団長とするイタイイタイ病弁護団が結成された。3月9日、まず患者9人と遺族20人の計29人が、三井金属鉱業を相手に6100万円の慰謝料請求提訴に踏み切った。



裁判結果

イタイイタイ病裁判は第一回口頭弁論が1968年5月に開かれ、以後36回の口頭弁論と4回の現場検証を経て、1971年6月30日に富山地方裁判所で四大公害裁判の先頭を切って、患者・遺族の勝訴判決が下された。判決は被告・三井金属鉱業の鉱業法第109条に基づく無過失賠償責任を認め、原告29名の訴額6100万円に対して、約5800万円を三井に支払うように命じた。

しかし、三井金属鉱業は第一判決を不服として、即日、名古屋高等裁判所に控訴した。控訴審は12回の証拠調べと口頭弁論を経て、1972年8月9日裁判所は三井金属鉱業の控訴を棄却し、再び原告側が勝訴した。三井金属鉱業は、上告を断念し、第二次以下の訴訟も判決内容に従って補償するという見解を表明した。

そして、判決翌日の三井本社交渉では、被害住民の基本的要求をすべて盛り込んだ2つの誓約書と1つの協定書が締結された。「イタイイタイ病の賠償に関する誓約書」は、二次から七次までの原告と裁判していなかった被害者に関する賠償問題を一挙に解決した。「土壌汚染問題に関する誓約書」は、汚染土壌復元とそれに伴う農業の損害補償を行うとともに汚染による損害の補償もすることを約束した。「公害防止協定」は、住民の立入調査と資料公開を認め、被害者が直接発生源を監視していく権利を確立した。

裁定額は約1億4800万円であった。



参考文献

川名英之 1987 「ドキュメント 日本の公害」 緑風出版

小田康徳 2008 「公害・環境問題史を学ぶ人のために」 世界思想社

土屋清 2003 「新現代社会資料2003」 実教出版

100.yahoo.co.jp/detail/

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