坂本龍馬
出典: Jinkawiki
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幕末期の倒幕運動指導者。海援隊長。1866年、仲介人として薩長同盟を成立させ、大政奉還に尽力する。尊攘志士として活動後、脱藩して勝海舟の下で航海術を学ぶ。竜馬は通称であり、直陰の後に直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの偽名を使用する。 | 幕末期の倒幕運動指導者。海援隊長。1866年、仲介人として薩長同盟を成立させ、大政奉還に尽力する。尊攘志士として活動後、脱藩して勝海舟の下で航海術を学ぶ。竜馬は通称であり、直陰の後に直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの偽名を使用する。 | ||
- | 高知城下町の本丁で、町人郷士の家に生まれる。14歳の時に、小栗流剣術師家~~に入門して武芸に打ち込みはじめると、5年後の嘉永6年(1853)、江戸へ出て、北辰一刀流千葉定吉の門下となり、1858年には北辰一刀流目録を授けられている。また、江戸滞在中の嘉永6年には、ペリー来航に直面して、蝦夷思想の影響を受けたが、翌年の安政元年土佐に帰国後、絵師の河田小竜から海運の必要性などについて教示される。 | + | 高知城下町の本丁で、町人郷士の家に生まれる。14歳の時に、小栗流剣術師家日根野弁治に入門して武芸に打ち込みはじめると、5年後の嘉永6年(1853)、江戸へ出て、北辰一刀流千葉定吉の門下となり、1858年には北辰一刀流目録を授けられている。また、江戸滞在中の嘉永6年には、ペリー来航に直面して、蝦夷思想の影響を受けたが、翌年の安政元年土佐に帰国後、絵師の河田小竜から海運の必要性などについて教示される。 |
このペリー来航により幕府が開国要求に応じて以来、尊王攘夷論と佐幕開港論とが激しく対立し、この動揺に揺さぶられる形で、若い龍馬は1861年(文久1年)に「土佐勤王党」に参加した。この頃において、龍馬は単なる剣士ではなく、尊王攘夷論に同調する志士となったのである。 | このペリー来航により幕府が開国要求に応じて以来、尊王攘夷論と佐幕開港論とが激しく対立し、この動揺に揺さぶられる形で、若い龍馬は1861年(文久1年)に「土佐勤王党」に参加した。この頃において、龍馬は単なる剣士ではなく、尊王攘夷論に同調する志士となったのである。 |
2009年1月26日 (月) 10:06の版
坂本龍馬(1835-67)
幕末期の倒幕運動指導者。海援隊長。1866年、仲介人として薩長同盟を成立させ、大政奉還に尽力する。尊攘志士として活動後、脱藩して勝海舟の下で航海術を学ぶ。竜馬は通称であり、直陰の後に直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの偽名を使用する。
高知城下町の本丁で、町人郷士の家に生まれる。14歳の時に、小栗流剣術師家日根野弁治に入門して武芸に打ち込みはじめると、5年後の嘉永6年(1853)、江戸へ出て、北辰一刀流千葉定吉の門下となり、1858年には北辰一刀流目録を授けられている。また、江戸滞在中の嘉永6年には、ペリー来航に直面して、蝦夷思想の影響を受けたが、翌年の安政元年土佐に帰国後、絵師の河田小竜から海運の必要性などについて教示される。
このペリー来航により幕府が開国要求に応じて以来、尊王攘夷論と佐幕開港論とが激しく対立し、この動揺に揺さぶられる形で、若い龍馬は1861年(文久1年)に「土佐勤王党」に参加した。この頃において、龍馬は単なる剣士ではなく、尊王攘夷論に同調する志士となったのである。
その後、龍馬は土佐潘を脱藩し、江戸に出て勝海舟の門に入る。勝海舟は、進歩的な開国論者として注目された人物であり、龍馬はその勝海舟に学んで、航海術や海軍に関する知識を習得し、また、幕府の要人や知識人である松平春嶽や大久保一翁などの知遇を受け、その政治的な視野を大きく開いたのである。
また、薩摩藩に支援されて長崎に亀山社中を開き、一方で、三条実美らを大宰府に訪ねたり、下関で木戸孝允と会談し、中岡新太郎・土方久元らの動きに協力し、これが薩長同盟へと繋がることになる。そして、竜馬は社中を率いて、長崎で外国の艦船銃砲を購入することを幕府に禁ぜられていた長州藩のために、薩摩藩の名義で購入するなどの周旋を通じて薩長の関係を深め、ついでに京都薩摩藩邸で竜馬の仲介により薩長同盟が成立した。社中で航海術の稽古をしながら運輸業などに従い、さらに商社経営の企画を行い、慶応四年初旬に龍馬は海援隊長、中岡は陸援隊長となった。また、藩の支援を受け海援隊業務が拡大し、後藤象二郎とともに、割拠論と公議政体論が結び付けられた「船中八策」を策定する。しかし、十一月十五日、京都の近江屋で何者かに暗殺される。明白なわけではないが、暗殺したのは幕府の京都見廻組ではないかとされている。
彼にはこのような逸話が残っている。
ある時、勤王党の所属していた当時の同士がその当時流行であった長い新刀を手に入れ、誇らしげに見せてきた。しかし、龍馬は、「それでは長時間の格闘に腕が疲れて不利を招く。だから、自分は短い刀を持っている。」と言った。それを聞いて感心した同士は後日、短い刀を披露した。すると、龍馬は懐からピストルを取り出し、今度は「西洋にはこんな利器があるぞ。」と言った。以前との話と異なることから驚いた同士だったが、苦心の末ピストルを手に入れ、鼻高々に龍馬に見せると、「それは古い。私は今これを読んでいる。」と見せたのが、“万国公法”の和訳本であったという。
坂本龍馬という人物は、絶えず進歩を求めてやまなかった人物であった。
参考文献〉
編集代表・桑原武夫 1978 世界伝記大辞典2<日本・朝鮮中国編> 株式会社ほるぷ出版
発行者・林英夫 2001 日本近現代人名事典 吉川弘文館
著者・山口智司 2007 トンデモ偉人伝-臨終編- 株式会社彩図社