側用人

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2008年11月7日 (金) 19:40の版
Bunkyo-student2008 (ノート | 投稿記録)

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- 江戸時代、将軍の側近くに仕えて庶務に携わった職のことである。五代将軍徳川綱吉によって、1681年(天和元)年にこの職が設けられ、綱吉に仕えた牧野成貞が側衆より登用されたのが最初とされている。それまでの近侍の最高職は側衆で、大名が就任することもまれではなかったが、主に旗本役がこれに就き、その地位は若年寄の下であった。これに昇進する者は側衆・奥勤から用いられるか、若年寄を経て任ぜられる物が大多数であった。また、近世初頭の近習出頭人や、三代将軍徳川家光に近侍した堀田正盛にその源流を求める説もある。+ 江戸時代、将軍の側近くに仕えて庶務に携わった職のことである。五代将軍徳川綱吉によって、1681年(天和元)年にこの職が設けられ、綱吉に仕えた牧野成貞が側衆より登用されたのが最初とされている。定員は1名で、役高は1万石以上といわれている。それまでの近侍の最高職は側衆で、大名が就任することもまれではなかったが、主に旗本役がこれに就き、その地位は若年寄の下であった。これに昇進する者は側衆・奥勤から用いられるか、若年寄を経て任ぜられる物が大多数であった。また、近世初頭の近習出頭人や、三代将軍徳川家光に近侍した堀田正盛にその源流を求める説もある。
側用人は常に将軍の側にあって、将軍の意志・命令を老中に伝達し、老中よりの上申を将軍に取り次ぐことを主な職務とした。側用人とは奥行きの職であり、表方の役職に対し制度上の権限を持つものではないが、将軍の厚い恩寵を背景に、その発言は政務の上に強大な権威を持った。天和期(1681~1684)以降にこの職に就任した者は30名を超えるが、必ずしも常置されていたわけではなく、このうち15名は綱吉時代の補任である。 側用人は常に将軍の側にあって、将軍の意志・命令を老中に伝達し、老中よりの上申を将軍に取り次ぐことを主な職務とした。側用人とは奥行きの職であり、表方の役職に対し制度上の権限を持つものではないが、将軍の厚い恩寵を背景に、その発言は政務の上に強大な権威を持った。天和期(1681~1684)以降にこの職に就任した者は30名を超えるが、必ずしも常置されていたわけではなく、このうち15名は綱吉時代の補任である。
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== 江戸時代の主な側用人 == == 江戸時代の主な側用人 ==
- 側用人として力を持った人物として、綱吉に仕えた牧野成貞と柳沢吉保がいる。特に柳沢吉保は、官は左近衛少将という大老格に昇進し、綱吉の寵愛を受けて、その権威増大はなはだしく、側用人政治とも評せられた。彼らは老中格や大老格の待遇を与えられて老中をもしのぐ権勢をふるったといわれている。+ 側用人として力を持った人物として、綱吉に仕えた牧野成貞と柳沢吉保がいる。特に柳沢吉保は、670石の小納戸役から官は左近衛少将という大老格に昇進し、綱吉の寵愛を受けて、その権威増大はなはだしく、側用人政治とも評せられた。彼らは老中格や大老格の待遇を与えられて老中をもしのぐ権勢をふるったといわれている。
 正徳期(1711~1716)には、六代将軍徳川家宣、その子である七代将軍家継の代に側用人間部詮房がこれに登用され、将軍の権威を背景に幕政を左右した。その後の享保期(1716~1736)の八代将軍徳川吉宗は、側用人の権勢への反感を配慮してこれを置かなかったが、代わりに側用人に類似した御側用取次を設置した。その後の宝暦期(1751~1764)の九代将軍徳川家重の代に本丸に側用人を復活して、大岡忠光をこれに任じ、十代将軍徳川家治のもとでは田沼意次が勢力を張った。そして、この後はほぼ常置の職となる。  正徳期(1711~1716)には、六代将軍徳川家宣、その子である七代将軍家継の代に側用人間部詮房がこれに登用され、将軍の権威を背景に幕政を左右した。その後の享保期(1716~1736)の八代将軍徳川吉宗は、側用人の権勢への反感を配慮してこれを置かなかったが、代わりに側用人に類似した御側用取次を設置した。その後の宝暦期(1751~1764)の九代将軍徳川家重の代に本丸に側用人を復活して、大岡忠光をこれに任じ、十代将軍徳川家治のもとでは田沼意次が勢力を張った。そして、この後はほぼ常置の職となる。
 田沼意次の時代になると、それまでのように低い家柄の出身者でも譜代大名と等しく正規の行政職たる老中に就任できるようになり、側用人は老中に昇進するための一階梯として位置づけられた。  田沼意次の時代になると、それまでのように低い家柄の出身者でも譜代大名と等しく正規の行政職たる老中に就任できるようになり、側用人は老中に昇進するための一階梯として位置づけられた。

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 江戸時代、将軍の側近くに仕えて庶務に携わった職のことである。五代将軍徳川綱吉によって、1681年(天和元)年にこの職が設けられ、綱吉に仕えた牧野成貞が側衆より登用されたのが最初とされている。定員は1名で、役高は1万石以上といわれている。それまでの近侍の最高職は側衆で、大名が就任することもまれではなかったが、主に旗本役がこれに就き、その地位は若年寄の下であった。これに昇進する者は側衆・奥勤から用いられるか、若年寄を経て任ぜられる物が大多数であった。また、近世初頭の近習出頭人や、三代将軍徳川家光に近侍した堀田正盛にその源流を求める説もある。 側用人は常に将軍の側にあって、将軍の意志・命令を老中に伝達し、老中よりの上申を将軍に取り次ぐことを主な職務とした。側用人とは奥行きの職であり、表方の役職に対し制度上の権限を持つものではないが、将軍の厚い恩寵を背景に、その発言は政務の上に強大な権威を持った。天和期(1681~1684)以降にこの職に就任した者は30名を超えるが、必ずしも常置されていたわけではなく、このうち15名は綱吉時代の補任である。


江戸時代の主な側用人

 側用人として力を持った人物として、綱吉に仕えた牧野成貞と柳沢吉保がいる。特に柳沢吉保は、670石の小納戸役から官は左近衛少将という大老格に昇進し、綱吉の寵愛を受けて、その権威増大はなはだしく、側用人政治とも評せられた。彼らは老中格や大老格の待遇を与えられて老中をもしのぐ権勢をふるったといわれている。  正徳期(1711~1716)には、六代将軍徳川家宣、その子である七代将軍家継の代に側用人間部詮房がこれに登用され、将軍の権威を背景に幕政を左右した。その後の享保期(1716~1736)の八代将軍徳川吉宗は、側用人の権勢への反感を配慮してこれを置かなかったが、代わりに側用人に類似した御側用取次を設置した。その後の宝暦期(1751~1764)の九代将軍徳川家重の代に本丸に側用人を復活して、大岡忠光をこれに任じ、十代将軍徳川家治のもとでは田沼意次が勢力を張った。そして、この後はほぼ常置の職となる。  田沼意次の時代になると、それまでのように低い家柄の出身者でも譜代大名と等しく正規の行政職たる老中に就任できるようになり、側用人は老中に昇進するための一階梯として位置づけられた。


参考文献

大石 慎三郎 1995 将軍と側用人の政治 講談社
下中 弘(編)1993 日本史大辞典 東京印書館
渡邊 靜夫 1987 日本大百科全書14 小学館

ハンドル名:クリフ  


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