ASEAN

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 東南アジア諸国連合。Association of South-East Asian Nationsの略称。  東南アジア諸国連合。Association of South-East Asian Nationsの略称。
- 1967年8月8日にインドネシア、シンガポール、タイ、フィリピン、マレーシアの5カ国によって設立された地域協力機構のこと。その後84年にブルネイ、95年にベトナム、97年にラオス、ミャンマー、99年にはカンボジアを加えて、10カ国となり、東南アジアの全域をカバーする機構となっている。決定機関である外相会議の下にジャカルタに常設の中央事務局を置いている。+ 1967年8月8日にインドネシア、シンガポール、タイ、フィリピン、マレーシアの5カ国によって設立された地域協力機構のことで、その後84年にブルネイ、95年にベトナム、97年にラオス、ミャンマー、99年にはカンボジアを加えて、10カ国となり、東南アジアの全域をカバーする機構となっている。決定機関である外相会議の下にジャカルタに常設の中央事務局を置いている。
== ASEANの歩み == == ASEANの歩み ==
- 発足時の「バンコク宣言」では、域外諸国の干渉を排し、地域平和と安定のための集団自助の必要性を確認しつつ、経済・社会・文化的発展に向け協力するなど七項目の目標を掲げていた。発足当初は、中ソなど社会主義諸国から「反共軍事ブロック」と非難され、域内にもマレーシア、フィリピン間のサバ領有権問題など不協和音も目立ち、存続さえ危ぶまれた。しかし、70年代に入ってニクソン・ドクトリンによるアメリカの〈アジア離れ〉や、米中接近に見るアジアでの緊張緩和が進むと、東南アジア地域における大国間のバランスを求めた〈中立地帯宣言〉(1971)を打ち出し、地域紛争の自主的・平和的解決の方向を明確にした。75年のサイゴン陥落後、域内緊張が高まり、とくに79年のベトナム軍のカンボジア侵攻によって危機は深まったが、インドシナ諸国との共存を求めた自主的解決の政策を保つことで、広く国際社会で注目を浴びるようになった。+ 発足時の「バンコク宣言」では、域外諸国の干渉を排し、地域平和と安定のための集団自助の必要性を確認しつつ、経済・社会・文化的発展に向け協力するなど七項目の目標を掲げていたが、発足当初は、中ソなど社会主義諸国から「反共軍事ブロック」と非難され、域内にもマレーシア、フィリピン間のサバ領有権問題など不協和音も目立ち、存続さえ危ぶまれていた。しかし、70年代に入ってニクソン・ドクトリンによるアメリカの〈アジア離れ〉や、米中接近に見るアジアでの緊張緩和が進むと、東南アジア地域における大国間のバランスを求めた〈中立地帯宣言〉(1971)を打ち出し、地域紛争の自主的・平和的解決の方向を明確にした。75年のサイゴン陥落後、域内緊張が高まり、とくに79年のベトナム軍のカンボジア侵攻によって危機は深まったが、インドシナ諸国との共存を求めた自主的解決の政策を保つことで、広く国際社会で注目を浴びるようになった。
 + 
 この間に各国は強権によってではあれ、国内的な政治の安定と著しい経済成長を遂げた。経済開発が軌道に乗り、先進工業国との貿易、投資等の経済関係が深まるにつれ、共通の利益を促進するための機構上の整備が進んだ。決定機関である外相会議の下に、常設の中央事務局がジャカルタに開設されたほか、経済閣僚会議を中心とした貿易、資源、技術等の協力のための委員会が設けられ、域内特恵制度の拡充や関税引き下げなど、域内経済協力を強めている。このようにして今日では発展途上国の地域協力機構のモデルとされるまでに至っている。  この間に各国は強権によってではあれ、国内的な政治の安定と著しい経済成長を遂げた。経済開発が軌道に乗り、先進工業国との貿易、投資等の経済関係が深まるにつれ、共通の利益を促進するための機構上の整備が進んだ。決定機関である外相会議の下に、常設の中央事務局がジャカルタに開設されたほか、経済閣僚会議を中心とした貿易、資源、技術等の協力のための委員会が設けられ、域内特恵制度の拡充や関税引き下げなど、域内経済協力を強めている。このようにして今日では発展途上国の地域協力機構のモデルとされるまでに至っている。
== 日本との関係 == == 日本との関係 ==
- 日本は各国と個別的に経済関係を軸として協力関係を築いてきたが、とくに1977年の第二回首脳会議よりアジア・太平洋地域の先進国を含む拡大外相会議に参加し、ASEAN全体への協力を強めてきた。最近では相互依存の深まりとともに、各国から日本の市場開放や技術移転等の要求が強まっている。84年にブルネイ、95年にベトナム、97年にラオスとミャンマー、99年にカンボジアを加えて10カ国となり、東南アジアの全域をカバーする機構になったASEANとの関係は、ますます重要性を増している。+ 日本は各国と個別的に経済関係を軸として協力関係を築いてきたが、特に1977年の第二回首脳会議よりアジア・太平洋地域の先進国を含む拡大外相会議に参加し、ASEAN全体への協力を強めてきた。最近では相互依存の深まりとともに、各国から日本の市場開放や技術移転等の要求が強まっている。加盟国を増やして10カ国となり、東南アジアの全域をカバーする機構になったASEANとの関係は、ますます重要性を増している。
== 引用文献 == == 引用文献 ==

2009年1月26日 (月) 15:40の版

 東南アジア諸国連合。Association of South-East Asian Nationsの略称。  1967年8月8日にインドネシア、シンガポール、タイ、フィリピン、マレーシアの5カ国によって設立された地域協力機構のことで、その後84年にブルネイ、95年にベトナム、97年にラオス、ミャンマー、99年にはカンボジアを加えて、10カ国となり、東南アジアの全域をカバーする機構となっている。決定機関である外相会議の下にジャカルタに常設の中央事務局を置いている。

ASEANの歩み

 発足時の「バンコク宣言」では、域外諸国の干渉を排し、地域平和と安定のための集団自助の必要性を確認しつつ、経済・社会・文化的発展に向け協力するなど七項目の目標を掲げていたが、発足当初は、中ソなど社会主義諸国から「反共軍事ブロック」と非難され、域内にもマレーシア、フィリピン間のサバ領有権問題など不協和音も目立ち、存続さえ危ぶまれていた。しかし、70年代に入ってニクソン・ドクトリンによるアメリカの〈アジア離れ〉や、米中接近に見るアジアでの緊張緩和が進むと、東南アジア地域における大国間のバランスを求めた〈中立地帯宣言〉(1971)を打ち出し、地域紛争の自主的・平和的解決の方向を明確にした。75年のサイゴン陥落後、域内緊張が高まり、とくに79年のベトナム軍のカンボジア侵攻によって危機は深まったが、インドシナ諸国との共存を求めた自主的解決の政策を保つことで、広く国際社会で注目を浴びるようになった。

 この間に各国は強権によってではあれ、国内的な政治の安定と著しい経済成長を遂げた。経済開発が軌道に乗り、先進工業国との貿易、投資等の経済関係が深まるにつれ、共通の利益を促進するための機構上の整備が進んだ。決定機関である外相会議の下に、常設の中央事務局がジャカルタに開設されたほか、経済閣僚会議を中心とした貿易、資源、技術等の協力のための委員会が設けられ、域内特恵制度の拡充や関税引き下げなど、域内経済協力を強めている。このようにして今日では発展途上国の地域協力機構のモデルとされるまでに至っている。

日本との関係

 日本は各国と個別的に経済関係を軸として協力関係を築いてきたが、特に1977年の第二回首脳会議よりアジア・太平洋地域の先進国を含む拡大外相会議に参加し、ASEAN全体への協力を強めてきた。最近では相互依存の深まりとともに、各国から日本の市場開放や技術移転等の要求が強まっている。加盟国を増やして10カ国となり、東南アジアの全域をカバーする機構になったASEANとの関係は、ますます重要性を増している。

引用文献

下中直人(編) 2007 世界大百科辞典20 平凡社

新村出(編) 2008 広辞苑第六版 岩波書店                                          

渡邊靜夫(編) 1994 日本大百科全書16 小学館

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