ロシア革命
出典: Jinkawiki
2009年1月26日 (月) 16:18の版
前史
ロシアでは1861年の農奴解放以後も農民の生活向上は緩やかで、封建的な社会体制に対する不満が継続的に存在していた。平静であった農村でも、40年ぶりに一揆が頻発した。同じころ、ロシア化政策に反対するフィンランドやポーランドなどの諸民族の反抗も激しくなった。また、19世紀末以降の産業革命により工業労働者が増加し、社会主義勢力の影響が浸透していた。これに対し、ロマノフ朝の絶対専制(ツァーリズム)を維持する政府は社会の変化に対し有効な対策をとることができないでいた。1881年には皇帝アレクサンドル2世が暗殺されるなどテロも頻繁に発生していた。 大衆運動の活発化と並行して、政党の組織化が進んだ。1898年に結成されたロシア社会民主労働党は、1903年に国外で第2回大会を開き、ボリシェビキとメンシェビキの2分派を生み出しつつ、組織的な革命運動に乗り出した。一方、変革の担い手をプロレタリアート、勤労農民に求めるSR党も、革命的なナロードニキのサークルを基礎に結成され、04年7月、大衆の弾圧で名高い内相プレーベの暗殺を頂点とする多くのテロ活動を行った。また自由主義者たちも、03年にはゼムストボ(地方自治会)の反政府的地主層がゼムストボ立憲主義者同盟を、04年には自由主義的な知識人と地主が非合法結社の解放同盟を結成し、立憲政治を求める活動を開始した。 日露戦争での苦戦が続き、1905年には首都サンクトペテルブルクで生活の困窮をツァーリに訴える労働者の請願デモに対し、軍隊が発砲し多数の死者を出した(血の日曜日事件)。この事件を機に労働者や兵士の間で革命運動が活発化し、全国各地の都市でソヴィエト(労兵協議会)が結成された。また、黒海艦隊では「血の日曜日事件」の影響を受けウクライナ人水兵らが反乱を起こしたが、他艦により鎮圧された。呼応した他の反乱も、戦闘ののち鎮圧された。この時期、ロシア中央から離れた黒海沿岸諸都市やキエフなどで、革命運動が盛り上がりを見せた。 こうした革命運動の広がりに対し皇帝ニコライ2世は十月勅令で国会開設と憲法制定を発表し、ブルジョワジーを基盤とする立憲民主党の支持を得て革命運動の一応の鎮静化に成功した。 1906年に国会が開設されると、首相に就任したストルイピンによる改革が図られたが、強力な帝権や後進的な農村というロシア社会の根幹は変化せず、さらにストルイピンの暗殺(1911年)や第一次世界大戦への参戦(1914年)で改革の動きそのものが停滞してしまった。一方、労働者を中核とした社会主義革命の実現を目指したロシア社会民主労働党は、方針の違いから分裂していたメンシェヴィキと、ウラジーミル・レーニンが指導するボリシェヴィキが、ナロードニキ運動を継承して農民の支持を集める社会革命党と共に積極的な活動を展開し、第一次世界大戦においてドイツ軍による深刻な打撃が伝えられると、その党勢を拡大していった。