シーボルト

出典: Jinkawiki

(版間での差分)
2008年12月21日 (日) 20:58の版
Bunkyo-student2008 (ノート | 投稿記録)

← 前の差分へ
最新版
Bunkyo-student2008 (ノート | 投稿記録)

5 行 5 行
*生い立ち *生い立ち
-1796年2月17日ドイツ南部のビュルイブルグで、医師の息子として生まれた。2歳で父おなくし、父の遺志を受け継いでビュルブック大学に入学した。在学中は解剖学教授のデリンガー家に寄宿しながら、医学の他、生物学・人類学・民俗学・地理学を学び、医学博士となってからは、ドイツの博物学者アレクサンダー・フォン・フンボルトの「新大陸赤道地方紀行」を愛読し、海外、特に、東洋に強い憧れを抱くようになる。+1796年2月17日ドイツ南部のビュルイブルグで、医師の息子として生まれた。2歳で父を亡くし、父の遺志を受け継いでビュルブック大学に入学した。在学中は解剖学教授のデリンガー家に寄宿しながら、医学の他、生物学・人類学・民俗学・地理学を学び、医学博士となってからは、ドイツの博物学者アレクサンダー・フォン・フンボルトの「新大陸赤道地方紀行」を愛読し、海外、特に、東洋に強い憧れを抱くようになる。
-大学卒業後、一時は開業医となったがシーボルトだったが、1822年7月にハーグに向き、オランダ領東インド(現インドネシア)陸軍病院の外科少佐の職を得る。そして、1823年8月、長崎・出島にあったオランダ商館の専任医師として来日したのである。+大学卒業後、一時は開業医となったがシーボルトだったが、1822年7月にハーグに向き、オランダ領東インド(現インドネシア)陸軍病院の外科少佐の職を得る。そして、1823年8月、長崎・出島にあったオランダ商館の専任医師として来日を果たした。
来日後のシーボルトは、長崎奉行の許可を得て私塾(鳴滝塾)を創立し、優秀な人材の育成にあたった。その一方で、持ち前の好奇心から動植物の標本や日本に関するあらゆる文物を収集し、膨大なコレクションをオランダに送付。帰国後は、自費で日本に関する博物館をつくり、日本とその周辺地域についての研究所「日本」を発表して、西欧きっての日本学の権威となった。シーボルトの本来の目的は、日本に関する膨大なコレクションを収集・分析し、西欧における「日本学」を樹立することであった。 来日後のシーボルトは、長崎奉行の許可を得て私塾(鳴滝塾)を創立し、優秀な人材の育成にあたった。その一方で、持ち前の好奇心から動植物の標本や日本に関するあらゆる文物を収集し、膨大なコレクションをオランダに送付。帰国後は、自費で日本に関する博物館をつくり、日本とその周辺地域についての研究所「日本」を発表して、西欧きっての日本学の権威となった。シーボルトの本来の目的は、日本に関する膨大なコレクションを収集・分析し、西欧における「日本学」を樹立することであった。
14 行 14 行
このように、鳴滝塾の診療からシーボルトの膨大なコレクション収集が始った。 このように、鳴滝塾の診療からシーボルトの膨大なコレクション収集が始った。
また、オランダ語の学習と称して弟子たちに地理・物産・政治・軍事など多岐にわたったテーマを与え、オランダ語のレポートを提出させ、情報を収集した。 また、オランダ語の学習と称して弟子たちに地理・物産・政治・軍事など多岐にわたったテーマを与え、オランダ語のレポートを提出させ、情報を収集した。
-鳴滝塾の生徒には、伊藤玄朴・高野長英らがいる。+鳴滝塾の生徒には、伊藤玄朴・高野長英・小関三英らがいる。

最新版

シーボルト(1796~1866)

フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold)。ドイツ人で、蘭商館医師。長崎県郊外鳴滝村に塾を開き、医学、蘭学を教授し、診療も1828年シーボルト事件により、翌年国外追放。1859年再来日し、62年に帰国。


  • 生い立ち

1796年2月17日ドイツ南部のビュルイブルグで、医師の息子として生まれた。2歳で父を亡くし、父の遺志を受け継いでビュルブック大学に入学した。在学中は解剖学教授のデリンガー家に寄宿しながら、医学の他、生物学・人類学・民俗学・地理学を学び、医学博士となってからは、ドイツの博物学者アレクサンダー・フォン・フンボルトの「新大陸赤道地方紀行」を愛読し、海外、特に、東洋に強い憧れを抱くようになる。 大学卒業後、一時は開業医となったがシーボルトだったが、1822年7月にハーグに向き、オランダ領東インド(現インドネシア)陸軍病院の外科少佐の職を得る。そして、1823年8月、長崎・出島にあったオランダ商館の専任医師として来日を果たした。 来日後のシーボルトは、長崎奉行の許可を得て私塾(鳴滝塾)を創立し、優秀な人材の育成にあたった。その一方で、持ち前の好奇心から動植物の標本や日本に関するあらゆる文物を収集し、膨大なコレクションをオランダに送付。帰国後は、自費で日本に関する博物館をつくり、日本とその周辺地域についての研究所「日本」を発表して、西欧きっての日本学の権威となった。シーボルトの本来の目的は、日本に関する膨大なコレクションを収集・分析し、西欧における「日本学」を樹立することであった。


  • 鳴滝塾

鳴滝塾は診療所兼用の蘭学・医学の塾であった。診療所におけるシーボルトは、日本各地からやってくる人たちを身分の隔てなく治療し、一切治療費は受け取らなかったという。患者たちは、治療費の代わりにさまざまな文物を持ち込むようになった。オランダ国立ライデン民族学博物館特別研究員であり、シーボルト研究家の秦新二氏は、「シーボルトはこうした日本インの贈答の習慣を見て、自分のコレクションを系統立てて集めることを思いつき、彼らを利用して美術工芸品を集めていく」と述べている。 このように、鳴滝塾の診療からシーボルトの膨大なコレクション収集が始った。 また、オランダ語の学習と称して弟子たちに地理・物産・政治・軍事など多岐にわたったテーマを与え、オランダ語のレポートを提出させ、情報を収集した。 鳴滝塾の生徒には、伊藤玄朴・高野長英・小関三英らがいる。


  • 代表的な著作物

『シーボルト先生―その生涯及び功業』が東洋文庫で刊

P. F. von Siebold Nippon1832-1882『日本』 - シーボルト著

『日本及びその隣国属国の沿海地図』- シーボルト著

『日本海国に関する蘭・露の活動』- シーボルト著

P. F. von Siebold and J. G. von Zuccarini Flora Japonica, Leiden, 1835-1870 『日本植物誌』 邦訳は『日本』が雄松堂で刊 - シーボルト著

『江戸参府紀行』が東洋文庫で刊 - シーボルト著

『シーボルト最後の日本旅行』が東洋文庫で刊


参考資料

・日本史用語集 全国歴史教育研究協議会 2004 山川出版 

・歴史のミステリー48 小河原 和世(発行人) 清原 伸一(編集人)2008 デアゴスティーに・ジャパン(発行所)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88


  人間科学大事典

    ---50音の分類リンク---
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                          
                  
          

  構成