土井利勝
出典: Jinkawiki
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江戸初期の譜代(ふだい)大名。老中。徳川家康に仕えた利昌(としまさ)の長子とされるが、家康の庶子とする説が有力で、家康の母の兄水野信元(のぶもと)の子とする説もある。幼時から家康に仕え、1579年(天正7)秀忠(ひでただ)誕生とともに秀忠付きとなり、秀忠の終生にわたって近侍してよく任を果たした。1602年(慶長7)に下総(しもうさ)(千葉県)小見川(おみがわ)で1万石が与えられ、10年加増されて同国佐倉(さくら)(3万2000石余)へ転封、以後しばしば加増あって、25年(寛永2)には14万2000石を領するに至った。この間従(じゅ)五位下、大炊助(おおいのすけ)の叙任を受け、さらに従四位下、侍従(じじゅう)に進んだ。利勝は酒井忠世(ただよ)、大久保忠隣(ただちか)、本多正信(まさのぶ)らとともに秀忠補佐の中心におり、家康の信頼も厚く、徳川政権の基礎を固めるために大きな働きをした。家康、本多正信が相次いで没したのちは元老と称され、秀忠政権を支える中心に位置した。秀忠も利勝邸に赴くなど親近の情が厚かった。家光(いえみつ)の補導にも努めている。秀忠没後、33年下総古河(こが)(茨城県古河市)へ移され16万石を領し、老中の中心にいたが、実務は、家光(いえみつ)子飼いから出頭して老中に登用された松平信綱(のぶつな)らに移っていった。利勝は知者の名が高く、優れた識見を有していたといわれる。
小ネタ
慶長5年(1600年)、関ヶ原へ出陣するも間に合わず。
知れば知るほど江戸大名:実業之二本社
広辞苑:岩波書店