直江兼続

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-<参考文献>羽生道英 「直江兼続」 幻冬舎文庫+<参考文献>羽生道英 『直江兼続』 幻冬舎文庫

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 直江兼続(1560~1619)は戦国時代中期から江戸時代初期にかけて活躍した上杉家の家老である。「愛」「義」を持って生きた戦国の智将であった。

生涯

 ・直江兼続は1560年に越後国の坂戸城主・長尾政景の家臣である樋口兼豊の長男として生まれた。兼続は幼少のころから智勇の誉れが高く1564年に政景の子である顕景(後の景勝)の近習となり、以後、景勝を支える立場として見守っていくことになる。

 ・1578年、毘沙門天の化身、戦国乱世の軍神といわれた上杉謙信が死去。翌年、謙信の養子になっていた景勝は同じく養子であった上杉影虎と争いの末、上杉家の家督を引き継ぎ上杉家の当主になった。

 ・1581年に与板城主だった直江信綱が殺害されると名家を絶やすのを惜しんだ景勝は幼いころから兄弟のように育ってきた兼続は二つ返事で了承し、信綱を殺され未亡人となっていたお船と結婚し、兼続は直江家の一員となった。そして、この頃から景勝は兼続を執権とし、絶大な信頼をおいた。

 ・後に秀吉の目にとまった兼続は豊臣の名を与えられ豊臣兼続とし、小田原の合戦や朝鮮出兵などに参加し軍功を挙げた。秀吉は「天下の治世を任じ得る人物」と絶賛したといわれている。

 ・秀吉の死後、徳川家康が台頭してくると石田三成と親しかった兼続は三成を支持するようになる。この時に家康に対して否の体制ををとり、家康からの様々な要求を拒否し家康を怒らせ、会津討伐を行おうとする。この際に景勝が家康から謀反の罪を問われたが、理を持って反論した。この時に家康宛に届いたのが戦国でも有名な「直江の喧嘩状」であった。

 ・1600年、家康は会津に向かっていたがそれを翻し、石田三成と関ヶ原で堕ち合い、いわゆる「関ヶ原の戦い」に臨んだ。兼続はそれを見届けると東軍を支持していた山形の当主であった最上義光に戦を吹き翔り、長谷堂城の戦いが勃発。兼続率いる上杉軍は大軍で最上軍を攻めたが敗退。後に逆上した最上軍と伊達軍に土地を奪われることになる。

 ・関ヶ原の戦いで西軍が破れ、上杉家にも家康の余波が押し寄せた。だが兼続は上杉家を守るべく家康に謝罪を行った際にも、強い態度で答え石高は減らされたが上杉家の名を残すことに尽力を尽くした。

 ・その後は徳川家に忠誠を誓い、1614年からの大坂の役においても徳川側として参戦した。そして1619年にこの世を去った。

人物像

 ・兼続は武将としてもさることながら、南化玄興、西笑承兌といった学僧とも親交を結び、多くの漢詩や句を残すなど、戦国きっての文化人でもあった。

 ・妻であるお船とは夫婦仲が大変よく、兼続は側室を一人も持たなかったとされている。

 ・兼続の兜といえば「愛」と表したものが有名である。これは「仁愛」や「愛民」の精神に基づくものであるという説もあるが、元の主であった上杉謙信が毘沙門天の信仰を表した「毘」の字を旗印に使用するなど、広く一般に行われていたため、「愛染明王」又は「愛宕権現」の信仰を表したものと現在では推測されている。


<参考URL>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E6%B1%9F%E5%85%BC%E7%B6%9A http://www.city.nagaoka.niigata.jp/kankou/rekishi/kanetugu/syougai.html

<参考文献>羽生道英 『直江兼続』 幻冬舎文庫


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