エカチェリーナ2世

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女帝は異教徒や分離派(ラスコーリニキ)に対して寛容政策をとり、病院・孤児院を設け、セルビア人教育家を招いて教育計画をつくらせた。また、首都ペテルブルクを西欧風の近代都市として整備し、ボリショイ劇場をつくり、エルミタージュ美術館の基礎をすえ、文芸・出版を奨励し、自らも筆を取った。 女帝は異教徒や分離派(ラスコーリニキ)に対して寛容政策をとり、病院・孤児院を設け、セルビア人教育家を招いて教育計画をつくらせた。また、首都ペテルブルクを西欧風の近代都市として整備し、ボリショイ劇場をつくり、エルミタージュ美術館の基礎をすえ、文芸・出版を奨励し、自らも筆を取った。
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 +鳥山成人 「[新版]ロシアを知る事典」 平凡社

2009年1月27日 (火) 14:18の版

エカチェリーナ2世|Ekaterina Ⅱ|1729-96


 ロシア女帝。在位1762-96年。62年の宮廷革命で即位し、「大帝」とよばれる。  若いころから派手な愛情生活で知られ、34年間の在位中も近衛士官で宮廷革命の功労者など10人の公式の愛人をもったが、彼らに政治を任せることはなかった。即位直後、外交官出身の有力政治家が常設諮問機関の設置を示唆したが、君主専制を志向する女帝はこれを退けた。  女帝は賢明・意志的であると同時に野心的で虚栄心も強く、即位前から啓蒙思想を学び、ヴォルテールなどとも文通して啓蒙君主として有名になった。  

女帝は官僚的絶対主義を理想としたが、73年からのプガチョフの乱ののち、75年の地方改革である程度の地方分権と貴族中心の地方自治を導入し、85年には貴族と都市に特権認可状を与え、貴族の諸特権と身分的自治、都市のギルド制と自治を認めた。しかし、農民、とくに貴族領農民(農奴)の地位は改善されずむしろ劣悪化し、女帝自身、寵臣に土地を与えるなどして農奴を急増させた。  外政では、ポーランド分割と2度の露土戦争で西方および南方に大きく領土を広げた。ウクライナと黒海北岸はロシア化と開発・殖民が進められ、黒海は内海化した。また、女帝はシベリア・極東にも注意を払い、92年にはラクスマンが女帝の親書をたずさえて根室に来航した。

 

女帝は異教徒や分離派(ラスコーリニキ)に対して寛容政策をとり、病院・孤児院を設け、セルビア人教育家を招いて教育計画をつくらせた。また、首都ペテルブルクを西欧風の近代都市として整備し、ボリショイ劇場をつくり、エルミタージュ美術館の基礎をすえ、文芸・出版を奨励し、自らも筆を取った。


参考文献 鳥山成人 「[新版]ロシアを知る事典」 平凡社


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