フェビアン社会主義
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2009年1月27日 (火) 16:04の版
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フェビアン協会の発足と推移
1870年代の大不況下,深刻な社会問題が表面化し,自由放任主義への不信が高まるなか,1880年代,社会主義が復活した。歴史的に重要な2団体のうち,マルクス主義を導入したハインドマンらの「民主連盟」は1881年発足し,1884年1月,無名の青年達の,道徳改革と社会改造をめざす「フェビアン協会」が設立され,直後加入したバーナード=ショーとシドニー=ウェッブがしだいに指導権を握った。名称は,ローマの将軍ファビウスの“待機と激しい一撃”の戦略にあやかって採用された。集会,講演会を催したり不定期小冊子“Fabian Tract”を発行しはじめた。1887年,土地・資本の社会的所有による社会改造を,社会主義的見解の普及によって達成することを定め,1889年末,『フェビアン論集』を刊行,一躍声価を得た。協会ははじめ,労働者階級の運動および政党の意義に懐疑的で,理論や政策を進歩派の政治家や他団体,地方議会,地域・中央機関,知識階級に“浸透”させていく方針をとり,独立労働党の結成(1893),労働代表者委員会の成立に消極的だったが,第一次世界大戦時,労働党と緊密になり初めて社会主義を掲げた党綱領(「労働党と新社会秩序」1918)をウェッブが起草し,協会も1919年,修正綱領で,労働党の構成要素であることを明記した宣伝・調査・立案・出版活動団体となって,労働党の頭脳として貢献した。1920~30年代,ウェッブ夫妻たちは,マクドナルド労働党内閣に幻滅し,マルクス主義へ傾斜していき協会は低迷したが,新フェビアン調査局の復帰(1939)後,再び活発になり,アトリー内閣時,最盛期を迎えた。だが1950年代以降,政策の実現と労働党の不振は,フェビアン主義を厳しい内的外的批判にさらしている。