保元・平治の乱

出典: Jinkawiki

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*保元の乱*

 鳥羽院政下で貴族政界の勢力争いが複雑になっていたが,1155年(久寿2),鳥羽上皇が後白河天皇を即位させると,自分の皇子重仁親王の即位と院政の実現を期待しながら自重の生活を送っていた崇徳上皇の希望は完全に断たれた。一方,そのころ,摂関家でも関白藤原忠通と父藤原忠実・弟藤原頼長が関白・氏長者の地位をめぐって深刻に対立していた。忠実は,初め関白・氏長者職を忠通に譲ったが,後これを弟の頼長に与えようとして,鳥羽上皇にもはかって1150年(久安6)忠通から氏長者職を奪い,翌年上皇に請うて頼長に内覧の宣旨を賜わった。他方,忠通は美福門院・近衛天皇に接近してこれに対抗し,近衛天皇が病没するとその死因は忠実・頼長の呪詛によるとの流言を放って鳥羽上皇の信任を得,機敏に後白河天皇の即位を実現させたので両者の勢力関係は逆転するに至った。そこで現状に不満をもつ崇徳上皇と頼長とが結託して後白河天皇と忠通に対抗し,両勢力の対立は一触即発の状態となった。    やがて1156年(保元1)7月2日鳥羽上皇が没するとこの対立は爆発し,崇徳上皇方は源為義・為朝父子や平忠正らの武士を集め,後白河天皇方は源義朝・平清盛らを中心とする源平の武士を集結させるとともに,検非違使・国司に命じて上皇方の軍勢の入京を禁じる措置をとって互いに襲撃の機をうかがった。同月11日未明,義朝の献策を容れた天皇方が崇徳上皇の御所に夜討ちをかけて一挙に勝敗を決した。頼長は流れ矢に当たって戦死し,上皇は捕えられて讃岐に流され,為義・忠正はそれぞれ子義朝・甥清盛の手によって斬罪された。この乱は,本来,貴族層内部の権力抗争に端を発したが,乱の結果は政争を解決するためにはもはや武力によらなければならないことを遺憾なく実証し,その中心となった源義朝と平清盛が急速に中央政界へ進出することとなった。忠通の子の慈円は『愚管抄』のなかで,〈鳥羽院ウセサセ給ヒテ後,日本国ノ乱逆ト云コトハヲコリテ後ムサ(武者)ノ世ニナリニケルナリ〉と,この乱が武家時代の到来を告げる幕開けになった点を指摘している。「ムサノ世」、すなわち「武者の世」の到来をこれほどあざやかに示した出来事は他に見当たらない。


*平治の乱*

 保元の乱に勝った後白河天皇は,1158年(保元3)に退位して院政を始めたが,その間に院近臣や武士の間に権力争いが激しくなっていた。院権臣の藤原信西(通憲)と藤原信頼は互いに権勢を競って対抗し,とくに信西が信頼の近衛大将就任を阻止したことによりその抗争は深刻になった。一方,武士の棟梁のなかでは,清盛と義朝が相互に競って中央政界へ進出しようとしたが,保元の乱で最も武勲のあった義朝は,乱後の行賞で清盛が自分を凌いで正四位播磨守に任ぜられたことを不満とし,両者の反目が鋭くなっていった。義朝は初め信西に接近しようとしたが,清盛が巧みに信西と結んで勢力を伸ばしてきたため信頼と提携するようになり,ここに信西・清盛と信頼・義朝の二つの政治勢力が対立する状況を生じた。ついに1159年(平治1)12月,信頼・義朝は,清盛が熊野参詣に出かけた間隙をついて挙兵し,後白河上皇・二条天皇を内裏に幽閉し,信西の邸宅を焼き払って大和の田原に追いつめ自害させた。信頼は一時朝廷の実権を握って除目などを行ったが,しかし急ぎ帰京した清盛は天皇・上皇らを救出するとともに,信頼らの占拠する大内裏に攻撃をかけ,激戦の末義朝の率いる軍勢を破った。信頼は上皇に助命したが許されず六条河原で斬られ,義朝は東国へ逃亡する途中尾張国で家来の長田忠致に謀殺され,長男悪源太義平は斬罪,三男頼朝は伊豆に流罪となった。この平治の乱の結果源氏の勢力が没落して,清盛が中央政界におけるほとんど唯一の武門としての地位を確立し,以後平氏一門の急激な政界進出が始まった。



*参考文献*

・飯田悠紀子『保元・平治の乱』1980,教育社 http://www.tabiken.com/history/doc/Q/Q326C200.HTM

・「図解雑学 日本の歴史」前澤桃子著 ナツメ社

・「日本の歴史」小和田哲男著 三笠書房


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