オランダの学校闘争
出典: Jinkawiki
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オランダで、19世紀から20世紀初めまで行われた学校制度と宗教に関する論議。1917年に憲法第23条に「教育の自由」条文が作られるまで続いた。
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オランダ社会の特徴
- 寛容
他国で思想信条により排斥された人を受け入れてきた歴史から生まれた。お互い考え方が違っていても排斥しない。そのため多くの思想や信条がオランダ国内にはある。ただ最近はオランダ社会に同化しようとしないイスラム教信者の存在から、移民を制限するなどの動きもあった。
- 柱社会(学校闘争の開始後、学校選択の自由をもとに教育から他の分野まで波及した)
寛容の精神は、考え方の同じもの同士が集まり、生活や教育、放送など一切を別にした他の集団には干渉しないという形で社会に現れている。
起こり
19世紀はじめ、自由主義の指導者により宗教学校を閉鎖して中立性に基づいた公立学校が開かれるようになった。しかし間もなく、キリスト教関係の立場から、公教育の基礎は個々の信条にあるべきであるとして、宗教倫理に基づいた教育を行う権利が主張され始めた。カトリックとプロテスタントはお互いに異なるものの、宗教教育への志向は一致したため協力して運動するようになる。
展開・帰結
話し合いの中で様々な宗教宗派の政党がうまれ、また中立性に対する主義主張からも政党がうまれた。宗教学校側はまず開校の権利を獲得し、それから補助金獲得へと動いた。1888年に宗教勢力の内閣が結成され、かれらにより私立宗教学校は補助金を獲得することとなった。
最終的には1917年に憲法第23条により、一定の条件を満たした私立学校へ公立学校と同じ財政基盤を認めることと、教育の自由が規定された。
教育の自由とは
1、設立の自由
200人の生徒を集めれば学校を作ってよい。
2、理念の自由
設立者の信条・理念に基づいた学校を設立できる。宗教学校設立の基盤となる。
3、教育方法の自由
教員がとる教育法の自由を保障。フレネ教育などの手法は公立学校でも採られている。
参考URL
リヒテルズ直子氏講演/長野県教育委員会HP内
ブログ:wakei オランダの社会と文化 日本と比較しながら(43)
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