荘園2
出典: Jinkawiki
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- | '''荘園'''…公的支配を受けない(あるいは公的支配を極力制限した)一定規模以上の私的所有・経営の土地 | + | '''荘園…'''公的支配を受けない(あるいは公的支配を極力制限した)一定規模以上の私的所有・経営の土地 |
- | '''荘園の始まり'''…743年に出された墾田永年私財法が土地の私有を認めた時。 | + | '''荘園の始まり…'''743年に出された墾田永年私財法が土地の私有を認めた時。 |
== 墾田地系荘園 == | == 墾田地系荘園 == | ||
貴族や大寺社、有力豪族が付近の農民などを集めて、直接土地の開墾をする。 | 貴族や大寺社、有力豪族が付近の農民などを集めて、直接土地の開墾をする。 | ||
- | + | 初期荘園とも呼ばれる墾田地系荘園には、東大寺が自ら開墾させた越前国の道守荘(ちもりしょう)などの自墾地系荘園と、すでに開墾された土地を買収する既婚地系荘園があった。財政難に苦しむ朝廷自身、皇室の私有地である勅旨田を経営し、九州を統括する大宰府も公営田を経営するなど、自ら公地公民制の原則を崩していった。 | |
- | 初期荘園とも呼ばれる墾田地系荘園には、東大寺が自ら開墾させた越前国の道守荘(ちもりしょう)などの自墾地系荘園と、すでに開墾された土地を買収する既婚地系荘園があった。財政難に苦しむ朝廷自身、皇室の私有地である勅旨田を経営し、九州を統括する大宰府も公営田を経営するなど、自ら公地公民制の原則を崩していった。 | + | |
902年、後醍醐天皇のもとで延喜の荘園整理令が出され、公地公民の建て直しがはかられた。しかし、時代の流れはとどめがたく、同じ年に最後の班田収受が行われて以来、荘園も国司が支配する公領も、田堵とよばれる有力農民が1年契約で耕作を請け負う形に変わった。そして、田堵は所有権を示すために自分の名前をつけた名田の持ち主である名主に成長していった。さらに名主は自分の力で土地開発を進める開発領主へと成長していった。 | 902年、後醍醐天皇のもとで延喜の荘園整理令が出され、公地公民の建て直しがはかられた。しかし、時代の流れはとどめがたく、同じ年に最後の班田収受が行われて以来、荘園も国司が支配する公領も、田堵とよばれる有力農民が1年契約で耕作を請け負う形に変わった。そして、田堵は所有権を示すために自分の名前をつけた名田の持ち主である名主に成長していった。さらに名主は自分の力で土地開発を進める開発領主へと成長していった。 | ||
== 寄進地系荘園 == | == 寄進地系荘園 == | ||
- | 有力者に寄進された荘園 | + | 有力者に寄進された荘園 |
- | + | 8世紀半ばから9世紀半ばの初期荘園は、国家を後ろ盾として開墾が進んだため、きちんとした国司を通して中央政府に租税を払っていった。ところが、摂関政治が行われるようになって律令国家が衰えてきた10世紀以降、開発領主は国司に税を払わないで済ませる特権を手に入れようと、国司より位が上の中央貴族や寺社に寄進して領家とした。そして、領家の力で、国司や周りの領主から自分の土地をまもってもらおうとした。現地では自分が管理者である荘官となって農民から年貢・公事・夫役を徴収し、年貢の1部を領家に収めた。 | |
- | 8世紀半ばから9世紀半ばの初期荘園は、国家を後ろ盾として開墾が進んだため、きちんとした国司を通して中央政府に租税を払っていった。ところが、摂関政治が行われるようになって律令国家が衰えてきた10世紀以降、開発領主は国司に税を払わないで済ませる特権を手に入れようと、国司より位が上の中央貴族や寺社に寄進して領家とした。そして、領家の力で、国司や周りの領主から自分の土地をまもってもらおうとした。現地では自分が管理者である荘官となって農民から年貢・公事・夫役を徴収し、年貢の1部を領家に収めた。 | + | |
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荘園…公的支配を受けない(あるいは公的支配を極力制限した)一定規模以上の私的所有・経営の土地
荘園の始まり…743年に出された墾田永年私財法が土地の私有を認めた時。
墾田地系荘園
貴族や大寺社、有力豪族が付近の農民などを集めて、直接土地の開墾をする。 初期荘園とも呼ばれる墾田地系荘園には、東大寺が自ら開墾させた越前国の道守荘(ちもりしょう)などの自墾地系荘園と、すでに開墾された土地を買収する既婚地系荘園があった。財政難に苦しむ朝廷自身、皇室の私有地である勅旨田を経営し、九州を統括する大宰府も公営田を経営するなど、自ら公地公民制の原則を崩していった。 902年、後醍醐天皇のもとで延喜の荘園整理令が出され、公地公民の建て直しがはかられた。しかし、時代の流れはとどめがたく、同じ年に最後の班田収受が行われて以来、荘園も国司が支配する公領も、田堵とよばれる有力農民が1年契約で耕作を請け負う形に変わった。そして、田堵は所有権を示すために自分の名前をつけた名田の持ち主である名主に成長していった。さらに名主は自分の力で土地開発を進める開発領主へと成長していった。
寄進地系荘園
有力者に寄進された荘園 8世紀半ばから9世紀半ばの初期荘園は、国家を後ろ盾として開墾が進んだため、きちんとした国司を通して中央政府に租税を払っていった。ところが、摂関政治が行われるようになって律令国家が衰えてきた10世紀以降、開発領主は国司に税を払わないで済ませる特権を手に入れようと、国司より位が上の中央貴族や寺社に寄進して領家とした。そして、領家の力で、国司や周りの領主から自分の土地をまもってもらおうとした。現地では自分が管理者である荘官となって農民から年貢・公事・夫役を徴収し、年貢の1部を領家に収めた。
*参考文献*
・ウィキペディアhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%98%E5%9C%92
・「図解雑学 日本の歴史」前澤桃子著 ナツメ社