インドの大反乱(セポイの大反乱)
出典: Jinkawiki
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インドの大反乱
1857年5月、北インド、中央インドにおいて、イギリス東インド会社の支配に反抗して起こった反乱。1947年8月のインド、パキスタン分離独立をもたらす民族運動の第一歩とされる。従来、日本では、「セポイの反乱」とよばれることが多かった。セポイとは正しくはシパーヒー、すなわちイギリス東インド会社のインド人傭兵(ようへい)のことである。彼らが最初に反乱に立ち上がり、その後も重要な反乱の担い手であり続けたために、イギリス人の多くがこれを「セポイの反乱」とよんだのに由来している。 やがてインド、パキスタンの民族運動が高揚してくると、これは単なるシパーヒーの反乱でなく、民族運動の第一歩、最初の民族独立戦争であるとの主張が行われるようになった。
<歴史的背景>
1600年に成立したイギリス東インド会社は、1757年のプラッシーの戦い以降、インドにおいて商業活動のみならず、政治的・経済的支配を拡大するに至った。16世紀以来インドを支配してきたムガル朝は1707年アウランゼーブ帝の死後解体を速めており、19世紀なかばにはバハードゥル・シャー2世が名目的にデリーに存続しているにすぎなかった。これにかわった各地の諸侯も、マイソール、マラータ連合、シクなど個別にイギリスと戦いを繰り返して敗北していった。1849年の第二次シク戦争の勝利により、イギリスのインド支配はほぼ完成に至るが、各地にかろうじて残存してきた藩王国も、このころから再併合され始めた。サーターラ、ジャーンシー、ナークプルなどに、「失権政策」(藩王に嫡嗣のない場合併合する)を採用したにとどまらず、1856年、内政紊乱(びんらん)を理由に多くのシパーヒーの故郷であるアワドを併合したことは、シパーヒーにも衝撃を与えた。 経済的にはイギリスによる土地所有制度の変革、商品経済の浸透も大きな影響を与えた。いわゆるザミーンダーリー制に代表される新地税制度により、村落の中小土地保有者は土地を追われ、村落共同体の崩壊も始まった。また東インド会社の力を背後にもつキリスト教の布教は、ヒンドゥー教徒、イスラム教徒のどちらのインド人からも反感を誘った。とりわけイスラム教徒はシャー・ワリーウッラーを源とする復古主義によって宗教的にもイギリスとの戦いを促進させた。
<反乱の経過>
反乱の直接のきっかけは、新しく採用されたエンフィールド銃の使用をシパーヒーが拒否したことにある。新銃は弾薬包をかみ切って装填(そうてん)するのだが、この弾薬包にはヒンドゥー教徒にとって神聖な牛脂と、イスラム教徒にとって不浄な豚脂とが塗ってあるとのうわさが広まり、宗教上のタブーを犯すとしてシパーヒーが新銃使用を拒否して反乱が始まった。 1857年5月、軍事基地メーラトで蜂起(ほうき)したシパーヒーは翌日、かつての首都デリーでムガル皇帝を擁立し、復権宣言を行ったが、同時にシパーヒーを中心とした行政会議という合議体をつくり、軍事、行政、経済をも掌握しようとした。各地のシパーヒーは続々と蜂起してはデリーに進軍したが、なかには旧来の支配層と結合して反乱の新たな拠点をつくった場合もあった。アワドの旧首都であったラクナウ、マラータ連合の宰相の養子ナーナー・サーヒブを中心としたカーンプル、王妃ラクシュミー・バーイーを擁するジャーンシ、老雄クンワル・シングを指導者とするシャーアーバードなどが各地での拠点であった。 デリーの反乱政府はこれら各地の拠点の頂点にたち、旧来の支配層を初めとする人々に戦いを呼びかけたが、皇帝とその側近に対し、王子たちとシパーヒーという対立、さらにシパーヒー出身の総司令官バフト・ハーンのデリー到着後は、いっそう複雑化した内部抗争のために十分な戦闘指導ができなかった。1857年9月のデリー陥落から翌年3月までは反乱の中心はラクナウやジャーンシに移った。反乱の英雄アフマッドゥッラーを生んだラクナウが陥落し、ジャーンシおよびグワリオルの敗北でマラータ連合再結集の望みが消えてからも、村落やカーストの組織を反乱のなかで利用し、再編しつつ戦う農民を軸とするゲリラ戦は、1859年の初頭に至るまで続いた。この反乱の結果、1858年イギリス東インド会社のインド支配は終わり、イギリスの直接統治、すなわちインド帝国が成立した。
参考文献
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 Yahoo!百科事典