岩倉使節団

出典: Jinkawiki

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岩倉使節団(いわくらしせつだん)とは明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年(1873年)9月13日まで、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣された使節団である。岩倉具視を正使とし、政府のトップや留学生を含む総勢107名で構成された。


目次

目的

○条約を結んでいる各国を訪問し、元首に国書を提出する

○江戸時代後期に諸外国と結ばれた不平等条約の改正(条約改正)のための予備交渉

○西洋文明の調査


概要

明治4年(1871年)11月12日、右大臣・岩倉具視を全権大使とする遺外使節団が横浜を出発した。これに随行したのは、新政府の開明派を中心とする欧米諸国に興味を持つ知識人たちであった。 副使には木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳(外務少輔)がついた。他の随行者は、佐々木高行(司法大輔)、山田顕義(兵部大丞)、田中光顕(戸籍頭)、田中不二麿(文部大丞)、清水谷公孝(旧箱館府知事)、鍋島直大(旧佐賀藩主)、黒田長知(旧福岡藩主)、中江兆民(留学生)、団琢磨(留学生)、女学生5名がいた。 面々は華族、書記官、通訳、随員、留学生、女学生など総勢48名にのぼった。

使節の派遣そのものには反論はなかったもののその随行者の人選には異論が出た。太政大臣・三条実美は木戸・大久保の両名が行くことを反対し、井上馨も上司である大久保の渡海を反対し、政局に空席を成さないよう懇願した。 だが、近代日本を構築するには、欧米列強の国政を直に視察する必要があり、政府の開明派を多く連れて行くだけの意義があるとして、岩倉の最終決断により人選は上記の面々に決まった。 岩倉・大久保たちが気がかりとしたのは、留守中の政局を統制する人材に不安が残ったことだった。政府内では開明派と武断派の二極が存在し、留守中組には武断派が占めていた。 西郷隆盛を筆頭に大隈重信、板垣退助、山県有朋、江藤新平、後藤象二郎、井上馨らが顔を連ねていた。 結局、これら留守組には極力、新規の政策は行わせず、大久保が前もって準備しておいた政策だけを実行するよう誓約を持って約束を求めた。 また、人事の異動や増減も極力成さずにもしも、政策や人事に不祥事があれば、必ず使節団に報告して、指導を仰ぐべきことを求めた。


使節団は太平洋を渡り、12月6日にサンフランシスコに到着した。カリフォルニア州知事やサンフランシスコ市長らの大歓迎を受ける。伊藤博文が「今日の我が国の政府や国民がもっとも切望していることは、先進諸国の文明の最高点に早く到達することである」と演説し、大喝采を浴びた。 使節団はその後、アメリカ大陸を東へ横断し、明治5年(1872年)1月21日に首都ワシントンに到着した。友好的な大歓迎を受けた岩倉たちは、条約改正の交渉も難しくないと考え、条約改正の交渉を持ち出した。これは、使節団には欧米諸国の視察だけでなく、安政期に結ばれた条約改正の予備交渉を成すことも目的としていたからである。 だが、予想に反して、アメリカ政府の対応は厳しく、条約改正で不平等条約の部分改正は成されず、それどころか居留地の拡大や日本国内の旅行、不動産取得のための内地開放、輸出税の全廃など新しい条約項目を使節団に提案してきた。 さらにこの予備的な条約改正交渉には、大きな問題が浮上した。それは使節団が条約交渉の全権委任状を持ってこなかったため、それをアメリカ政府に指摘され、条約改正交渉が行き詰まりを見せたのである。 この問題を解決して、条約改正の譲歩を得たい使節団は、急遽大久保・伊藤の両副使を日本に帰国させ、全権委任状を持ってこさせることにしたが、留守政府にいた外務卿・副島種臣や外務大輔・寺島宗則らは、使節の任務は条約改正の予備的意見交換にあって、条約改正を正式に行うには準備不足と反対し、全権委任状を大久保らに渡すことを拒んだのである。  しかし、大久保・伊藤たちはいまさら手ぶらでアメリカに戻ったとあっては、不名誉極まりないとし、寺島宗則が彼らに随行して、全権委任状を与えるものの都合があって、交渉は中止にするという方針で問題を終息させることが提案された。 こうして、条約改正交渉は、留守組の外務系たちのしっぺ返しを受ける形で、歯止めが成される結果となった。

アメリカで足止めをくった使節団は、7月3日にアメリカを発ち、欧州へと向かい、リバプールに到着した。 一行はイギリスではビクトリア女王にも謁見し、世界随一の工業先進国の実状をつぶさに視察した。大久保は日本に残った西郷に「英国ノ富強ヲナス所以(ゆえん)ヲ知ルニタレリ」と報告しているなど、使節団にとって、驚愕する体験が続いた。

イギリス・フランス・プロシア(ドイツ)へと視察した、一行は、プロシアで鉄血宰相ビスマルクと会見し、プロシアが英仏露など列強から独立と国権を維持している富国強兵策について色々と聞かされた。ドイツと同じ道を歩もうとしている黎明期の日本に対して、ビスマルクは激励した。 このビスマルクの雄弁に感銘した大久保や伊藤は帰国後に日本のビスマルクを気取って、日本の近代化を目指すなど大きな影響を与えた。


大久保政権

ビスマルク謁見後、大久保は急報を受け取って、ベルリンから急遽帰国したが、そのときには留守組との全ての約束事が破られていた。 政策には朝鮮出兵を巡る新たな征韓論が巻き起こされており、人事も汚職事件が摘発されて、山県有朋や井上馨などが司法卿の江藤新平の手によって、辞めさせられたり、窮地に立たされたりしていた。 こうした外遊組と留守組との間には、大きな政治思想の格差が生じることになった。富国強兵を最優先事項とする外遊組と士族たちを保護するために征韓論を主張する留守組との確執は、後の士族の兵乱へと続いていく。 その意味で、この使節団は、近代日本の行く先を左右する大きな影響力を与えたことになる。政治的思想を外遊によって、広げた大久保たちは、欧米列強と並べる国力の増強を最優先とし、対外政策に対して、友好を持って接することが重んじられた。一方で留守組は直面する士族の苦境を脱すことが優先事項となった。そのために征韓論という無理な政策を執ろうとした。 この国内政策に縛られた政治思想は敗れ、開明的な政治思想のもと、新政府は外国の文明を熱心に取り入れ、文明開化が大いに発展していったのである。


日本への影響

元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定であったが、政治的思惑などから大規模なものとなる。政府のトップが長期間政府を離れ外遊するというのは異例であるが、直に西洋文明や思想に触れたという経験が彼らに与えた影響は評価された。使節団は1年10ヶ月かけて外遊し、100万円(※現在のお金に換算すると約100億円)の巨費を投じて欧米列強の強さの秘訣を会得した。 留学生も帰国後に政治、経済、教育、文化など様々な分野で活躍し、日本の文明開化に大きく貢献した。 一方では権限を越えて条約改正交渉を行おうとしたことによる留守政府との摩擦、外遊期間の大幅な延期、木戸と大久保の不仲などの政治的な問題を引き起こしたものの、この外遊は、日本の近代化を急がせる必要性が最大優先項目として挙げられる根拠となった。黎明日本の新しい国体は、欧米列強と肩を並べる水準にまで押し上げる必要性を政府首脳部たちに悟らせたのである。 その後の日本が近代化に弾みをつけ、つまづくことなく邁進できたのは、この外遊以降をもってなされたことであり、外遊が意味する歴史的意義は非常に大きなものを持っていたといえる。


<参考文献>

『明治維新』   田中 彰著  岩波ジュニア新書

『岩倉使節団 : 明治維新のなかの米欧』   田中 彰著  講談社

http://www13.ocn.ne.jp/~dawn/sekai.htm

http://jpco.sakura.ne.jp/shishitati1/kou-moku-tougou1/kou-moku44/kou-moku44a0.htm


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