足利尊氏

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-足利尊氏(高氏) 
=生涯= =生涯=
-1、生まれについて+==1、生まれについて==
尊氏は嘉元3年(1305年)に御家人足利貞氏の次男として生まれた。生誕地は綾部説(京都府綾部市上杉荘)、鎌倉説、足利荘説(栃木県足利市)の3つの説がある。幼名は又太郎。元応元年(1319年)10月10日、幕府執権・北条高時の偏諱を賜り高氏と名乗った。父・貞氏とその正室・釈迦堂(北条顕時の娘)との間に長男・足利高義がいたが、早世したため高氏が家督を相続することとなった。 尊氏は嘉元3年(1305年)に御家人足利貞氏の次男として生まれた。生誕地は綾部説(京都府綾部市上杉荘)、鎌倉説、足利荘説(栃木県足利市)の3つの説がある。幼名は又太郎。元応元年(1319年)10月10日、幕府執権・北条高時の偏諱を賜り高氏と名乗った。父・貞氏とその正室・釈迦堂(北条顕時の娘)との間に長男・足利高義がいたが、早世したため高氏が家督を相続することとなった。
-2、鎌倉幕府滅亡~室町幕府が開設まで+==2、鎌倉幕府滅亡~室町幕府が開設まで==
1331年(元弘1)8月、後醍醐天皇が笠置(かさぎ)で挙兵したとき、大仏貞直(おさらぎさだなお)とともに幕府軍を率いて上洛。元弘の変を平定後、鎌倉に帰った。攻撃に参加したとき、高氏の父である貞氏が没した直後であり、高氏は派兵を拒否した。すると鎌倉幕府は高氏の妻子を人質にとり、再度派兵を命令した。これにより、高氏は、幕府に対する強い不満を持つようになる。 1331年(元弘1)8月、後醍醐天皇が笠置(かさぎ)で挙兵したとき、大仏貞直(おさらぎさだなお)とともに幕府軍を率いて上洛。元弘の変を平定後、鎌倉に帰った。攻撃に参加したとき、高氏の父である貞氏が没した直後であり、高氏は派兵を拒否した。すると鎌倉幕府は高氏の妻子を人質にとり、再度派兵を命令した。これにより、高氏は、幕府に対する強い不満を持つようになる。
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尊氏は、武蔵など3か国の国務と守護職、さらに30か所に及ぶ所領を与えられたものの、征夷大将軍に任命されなかったことを不満とし、建武政権のいかなる機関にも参加せず、奉行所を強化し、独自の政権構想を固めつつあった。そのため、護良親王との反目がしだいに深まり、1334年(建武1)11月には、天皇に護良親王の逮捕を強要し、親王の身柄(みがら)を鎌倉の弟直義(ただよし)のもとへ送り、ついに幽閉した。翌年6月、北条時行が信濃(長野県)に挙兵し、鎌倉へ侵攻するや、尊氏は時行の乱を鎮圧するため東下したが、このときにも征夷大将軍の地位を許されなかった。8月には、時行軍を撃破して鎌倉を奪回したものの、直義の諫言(かんげん)を受け入れて帰洛せず、11月、逆に、直義の名をもって、新田義貞誅伐の檄文を諸将に送って軍勢催促を要請した。義貞誅伐を名目として、建武政権への反意を表明したものである。後醍醐天皇は、新田義貞と陸奥の北畠顕家(きたばたけあきいえ)らに尊氏誅伐を命令した。尊氏は箱根竹の下の合戦に義貞軍を破り、1336年(延元1・建武3)1月には入京し、天皇を叡山へとおった。しかし、尊氏の背後から入京した顕家軍との合戦に敗れ、九州へと敗走した。この途中、味方武将の動揺を鎮めるため、元弘以来の没収地を返付すると発表し、朝敵という汚名を逃れるために、光巌上皇の院宣を獲得した。さらに、一門の細川、今川氏や、小早川(こばやかわ)、大内氏などの有力武将を中国、四国の各地に派遣して、反撃の際の拠点づくりを怠らなかった。同年3月、尊氏は多々良浜(たたらはま)(福岡市東区)で菊池軍を破ったのち、勢力を急速に回復し、5月楠木正成を将とする建武政府軍を兵庫湊川に破り、6月には入京を果たし、京都近郊の合戦において政府軍をほぼ壊滅させた。8月、光明天皇を擁立した尊氏は、「この世は、夢のごとくにて候」と、遁世(とんせい)を祈願し、今世の果報を直義に賜りたいとの自筆願文(がんもん)を清水寺に納めたが、混沌(こんとん)とした内乱期社会が、武士の棟梁としての尊氏を隠遁させるはずもなく、彼の願望は終生を通じての夢でしかありえなかった。11月に、神器を光明天皇に引き渡した後醍醐天皇は、翌月、吉野に逃れて南朝を建てたが、この間尊氏は、「建武式目十七カ条」を制定して、室町幕府の施政方針を確立した。1337年(延元2・建武4)3月、高師泰(こうのもろやす)に越前(福井県)金ヶ崎城を攻略させた尊氏は、翌年5月、北畠顕家を堺の石津(いしづ)浜に敗死させ、閏(うるう)7月には、北国で勢力を挽回しつつあった新田義貞をも越前藤島で戦死させた。そして8月、尊氏は、待望久しかった征夷大将軍に任命された。元弘以来の戦没者の遺霊を弔い、天下の泰平を祈願するために、諸国に安国(あんこく)寺と利生(りしょう)塔を建立し始めたのも、この年のことである。1339年(延元4・暦応2)8月、後醍醐天皇が吉野で死去したことを知った尊氏は、直義とともに天皇のために盛大な法要を営み、さらに天竜寺を創建して、その菩提を弔っている。 尊氏は、武蔵など3か国の国務と守護職、さらに30か所に及ぶ所領を与えられたものの、征夷大将軍に任命されなかったことを不満とし、建武政権のいかなる機関にも参加せず、奉行所を強化し、独自の政権構想を固めつつあった。そのため、護良親王との反目がしだいに深まり、1334年(建武1)11月には、天皇に護良親王の逮捕を強要し、親王の身柄(みがら)を鎌倉の弟直義(ただよし)のもとへ送り、ついに幽閉した。翌年6月、北条時行が信濃(長野県)に挙兵し、鎌倉へ侵攻するや、尊氏は時行の乱を鎮圧するため東下したが、このときにも征夷大将軍の地位を許されなかった。8月には、時行軍を撃破して鎌倉を奪回したものの、直義の諫言(かんげん)を受け入れて帰洛せず、11月、逆に、直義の名をもって、新田義貞誅伐の檄文を諸将に送って軍勢催促を要請した。義貞誅伐を名目として、建武政権への反意を表明したものである。後醍醐天皇は、新田義貞と陸奥の北畠顕家(きたばたけあきいえ)らに尊氏誅伐を命令した。尊氏は箱根竹の下の合戦に義貞軍を破り、1336年(延元1・建武3)1月には入京し、天皇を叡山へとおった。しかし、尊氏の背後から入京した顕家軍との合戦に敗れ、九州へと敗走した。この途中、味方武将の動揺を鎮めるため、元弘以来の没収地を返付すると発表し、朝敵という汚名を逃れるために、光巌上皇の院宣を獲得した。さらに、一門の細川、今川氏や、小早川(こばやかわ)、大内氏などの有力武将を中国、四国の各地に派遣して、反撃の際の拠点づくりを怠らなかった。同年3月、尊氏は多々良浜(たたらはま)(福岡市東区)で菊池軍を破ったのち、勢力を急速に回復し、5月楠木正成を将とする建武政府軍を兵庫湊川に破り、6月には入京を果たし、京都近郊の合戦において政府軍をほぼ壊滅させた。8月、光明天皇を擁立した尊氏は、「この世は、夢のごとくにて候」と、遁世(とんせい)を祈願し、今世の果報を直義に賜りたいとの自筆願文(がんもん)を清水寺に納めたが、混沌(こんとん)とした内乱期社会が、武士の棟梁としての尊氏を隠遁させるはずもなく、彼の願望は終生を通じての夢でしかありえなかった。11月に、神器を光明天皇に引き渡した後醍醐天皇は、翌月、吉野に逃れて南朝を建てたが、この間尊氏は、「建武式目十七カ条」を制定して、室町幕府の施政方針を確立した。1337年(延元2・建武4)3月、高師泰(こうのもろやす)に越前(福井県)金ヶ崎城を攻略させた尊氏は、翌年5月、北畠顕家を堺の石津(いしづ)浜に敗死させ、閏(うるう)7月には、北国で勢力を挽回しつつあった新田義貞をも越前藤島で戦死させた。そして8月、尊氏は、待望久しかった征夷大将軍に任命された。元弘以来の戦没者の遺霊を弔い、天下の泰平を祈願するために、諸国に安国(あんこく)寺と利生(りしょう)塔を建立し始めたのも、この年のことである。1339年(延元4・暦応2)8月、後醍醐天皇が吉野で死去したことを知った尊氏は、直義とともに天皇のために盛大な法要を営み、さらに天竜寺を創建して、その菩提を弔っている。
-3、尊氏の死+==3、尊氏の死==
1347年(正平2・貞和3)から翌年にかけて、室町幕府軍と楠木正行(まさつら)らを中心とする南軍との攻防戦が展開されたが、この過程において、尊氏の執事高師直(こうのもろなお)の勢力が急速に伸張し、政務を統轄して声望の高かった直義との対立が激化した。尊氏は、師直の強請によって直義を退け、義詮(よしあきら)を鎌倉から呼び寄せて、直義のもっていた諸権限を義詮に与えた。尊氏の庶子で、直義の養子となっていた直冬(ただふゆ)も九州へと逐(お)われた。1350年(正平5・観応1)10月、直義は大和に赴き、南朝へ降伏して師直誅伐(ちゅうばつ)の軍をおこした。翌年2月には、直義党の勢力は尊氏・師直派を圧倒し、ついに師直・師泰らは直義党の上杉能憲(よしのり)によって殺害された。尊氏は直義党の処置を怒り、諸将も2派に分かれて対立するに至った。こうして、直義と師直との対立抗争に端を発した観応の擾乱は、ついに尊氏・義詮派と直義・直冬党との全面的な対立へと発展し、8月、直義は北国へと逃走した。直義は北国から関東へと逃れたが、尊氏は直義討伐軍を率いて追撃し、1352年(正平7・文和1)1月には鎌倉へ入り、翌月、直義を毒殺した。尊氏は以後1年有半を関東で過ごすが、それは、新田義興(よしおき)の挙兵によって混乱した東国の政情を回復せんがための日々であった。尊氏が鎌倉より京都に帰ったのは翌年9月のことであった。1355年(正平10・文和4)正月から3月にかけての直冬党の京都進攻を退けたのち、尊氏・義詮派はその勢力をようやく確立し、翌年1月には越前の斯波高経(しばたかつね)も復帰し、室町幕府は、観応の擾乱による痛手を回復するに至った。58年(正平13・延文3)尊氏は九州への遠征を計画した。それは、菊池氏に擁立された懐良親王の南軍が、博多(はかた)に攻め入るなどして勢力を強化しつつある情況を一挙に打開せんがためであった。しかし, 1347年(正平2・貞和3)から翌年にかけて、室町幕府軍と楠木正行(まさつら)らを中心とする南軍との攻防戦が展開されたが、この過程において、尊氏の執事高師直(こうのもろなお)の勢力が急速に伸張し、政務を統轄して声望の高かった直義との対立が激化した。尊氏は、師直の強請によって直義を退け、義詮(よしあきら)を鎌倉から呼び寄せて、直義のもっていた諸権限を義詮に与えた。尊氏の庶子で、直義の養子となっていた直冬(ただふゆ)も九州へと逐(お)われた。1350年(正平5・観応1)10月、直義は大和に赴き、南朝へ降伏して師直誅伐(ちゅうばつ)の軍をおこした。翌年2月には、直義党の勢力は尊氏・師直派を圧倒し、ついに師直・師泰らは直義党の上杉能憲(よしのり)によって殺害された。尊氏は直義党の処置を怒り、諸将も2派に分かれて対立するに至った。こうして、直義と師直との対立抗争に端を発した観応の擾乱は、ついに尊氏・義詮派と直義・直冬党との全面的な対立へと発展し、8月、直義は北国へと逃走した。直義は北国から関東へと逃れたが、尊氏は直義討伐軍を率いて追撃し、1352年(正平7・文和1)1月には鎌倉へ入り、翌月、直義を毒殺した。尊氏は以後1年有半を関東で過ごすが、それは、新田義興(よしおき)の挙兵によって混乱した東国の政情を回復せんがための日々であった。尊氏が鎌倉より京都に帰ったのは翌年9月のことであった。1355年(正平10・文和4)正月から3月にかけての直冬党の京都進攻を退けたのち、尊氏・義詮派はその勢力をようやく確立し、翌年1月には越前の斯波高経(しばたかつね)も復帰し、室町幕府は、観応の擾乱による痛手を回復するに至った。58年(正平13・延文3)尊氏は九州への遠征を計画した。それは、菊池氏に擁立された懐良親王の南軍が、博多(はかた)に攻め入るなどして勢力を強化しつつある情況を一挙に打開せんがためであった。しかし,
背中に腫物ができる病気にかかり、この計画を果たすまもなく、この年4月30日、京都二条万里小路(までのこうじ)邸で死去した。法名は仁山妙義。等持院殿。墓所は京都・等持院にある。 背中に腫物ができる病気にかかり、この計画を果たすまもなく、この年4月30日、京都二条万里小路(までのこうじ)邸で死去した。法名は仁山妙義。等持院殿。墓所は京都・等持院にある。

2009年1月29日 (木) 11:36の版

目次

生涯

1、生まれについて

尊氏は嘉元3年(1305年)に御家人足利貞氏の次男として生まれた。生誕地は綾部説(京都府綾部市上杉荘)、鎌倉説、足利荘説(栃木県足利市)の3つの説がある。幼名は又太郎。元応元年(1319年)10月10日、幕府執権・北条高時の偏諱を賜り高氏と名乗った。父・貞氏とその正室・釈迦堂(北条顕時の娘)との間に長男・足利高義がいたが、早世したため高氏が家督を相続することとなった。

2、鎌倉幕府滅亡~室町幕府が開設まで

1331年(元弘1)8月、後醍醐天皇が笠置(かさぎ)で挙兵したとき、大仏貞直(おさらぎさだなお)とともに幕府軍を率いて上洛。元弘の変を平定後、鎌倉に帰った。攻撃に参加したとき、高氏の父である貞氏が没した直後であり、高氏は派兵を拒否した。すると鎌倉幕府は高氏の妻子を人質にとり、再度派兵を命令した。これにより、高氏は、幕府に対する強い不満を持つようになる。

1333年2月、天皇が隠岐を脱出して、名和長年と船上山にこもるや、幕府軍を率いて再度西上したが、三河(愛知県)で一門の長老吉良貞義に北条氏討伐の決意を打ち明け、船上山への征途を偽装しつつ丹波に至り、4月、篠村八幡の社前で源氏再興の旗をあげた。5月、赤松則村、千種忠顕(ちぐさただあき)らと京都に侵攻し六波羅探題を滅ぼし、奉行所を置いて、全国各地から上洛する武将を傘下に加えた。後醍醐天皇は帰京後ただちに尊氏の昇殿を許し、鎮守府将軍とし、さらに諱(いみな)(尊治)の一字を与えて、北条氏討伐戦における尊氏の戦功を賞揚した。

尊氏は、武蔵など3か国の国務と守護職、さらに30か所に及ぶ所領を与えられたものの、征夷大将軍に任命されなかったことを不満とし、建武政権のいかなる機関にも参加せず、奉行所を強化し、独自の政権構想を固めつつあった。そのため、護良親王との反目がしだいに深まり、1334年(建武1)11月には、天皇に護良親王の逮捕を強要し、親王の身柄(みがら)を鎌倉の弟直義(ただよし)のもとへ送り、ついに幽閉した。翌年6月、北条時行が信濃(長野県)に挙兵し、鎌倉へ侵攻するや、尊氏は時行の乱を鎮圧するため東下したが、このときにも征夷大将軍の地位を許されなかった。8月には、時行軍を撃破して鎌倉を奪回したものの、直義の諫言(かんげん)を受け入れて帰洛せず、11月、逆に、直義の名をもって、新田義貞誅伐の檄文を諸将に送って軍勢催促を要請した。義貞誅伐を名目として、建武政権への反意を表明したものである。後醍醐天皇は、新田義貞と陸奥の北畠顕家(きたばたけあきいえ)らに尊氏誅伐を命令した。尊氏は箱根竹の下の合戦に義貞軍を破り、1336年(延元1・建武3)1月には入京し、天皇を叡山へとおった。しかし、尊氏の背後から入京した顕家軍との合戦に敗れ、九州へと敗走した。この途中、味方武将の動揺を鎮めるため、元弘以来の没収地を返付すると発表し、朝敵という汚名を逃れるために、光巌上皇の院宣を獲得した。さらに、一門の細川、今川氏や、小早川(こばやかわ)、大内氏などの有力武将を中国、四国の各地に派遣して、反撃の際の拠点づくりを怠らなかった。同年3月、尊氏は多々良浜(たたらはま)(福岡市東区)で菊池軍を破ったのち、勢力を急速に回復し、5月楠木正成を将とする建武政府軍を兵庫湊川に破り、6月には入京を果たし、京都近郊の合戦において政府軍をほぼ壊滅させた。8月、光明天皇を擁立した尊氏は、「この世は、夢のごとくにて候」と、遁世(とんせい)を祈願し、今世の果報を直義に賜りたいとの自筆願文(がんもん)を清水寺に納めたが、混沌(こんとん)とした内乱期社会が、武士の棟梁としての尊氏を隠遁させるはずもなく、彼の願望は終生を通じての夢でしかありえなかった。11月に、神器を光明天皇に引き渡した後醍醐天皇は、翌月、吉野に逃れて南朝を建てたが、この間尊氏は、「建武式目十七カ条」を制定して、室町幕府の施政方針を確立した。1337年(延元2・建武4)3月、高師泰(こうのもろやす)に越前(福井県)金ヶ崎城を攻略させた尊氏は、翌年5月、北畠顕家を堺の石津(いしづ)浜に敗死させ、閏(うるう)7月には、北国で勢力を挽回しつつあった新田義貞をも越前藤島で戦死させた。そして8月、尊氏は、待望久しかった征夷大将軍に任命された。元弘以来の戦没者の遺霊を弔い、天下の泰平を祈願するために、諸国に安国(あんこく)寺と利生(りしょう)塔を建立し始めたのも、この年のことである。1339年(延元4・暦応2)8月、後醍醐天皇が吉野で死去したことを知った尊氏は、直義とともに天皇のために盛大な法要を営み、さらに天竜寺を創建して、その菩提を弔っている。

3、尊氏の死

1347年(正平2・貞和3)から翌年にかけて、室町幕府軍と楠木正行(まさつら)らを中心とする南軍との攻防戦が展開されたが、この過程において、尊氏の執事高師直(こうのもろなお)の勢力が急速に伸張し、政務を統轄して声望の高かった直義との対立が激化した。尊氏は、師直の強請によって直義を退け、義詮(よしあきら)を鎌倉から呼び寄せて、直義のもっていた諸権限を義詮に与えた。尊氏の庶子で、直義の養子となっていた直冬(ただふゆ)も九州へと逐(お)われた。1350年(正平5・観応1)10月、直義は大和に赴き、南朝へ降伏して師直誅伐(ちゅうばつ)の軍をおこした。翌年2月には、直義党の勢力は尊氏・師直派を圧倒し、ついに師直・師泰らは直義党の上杉能憲(よしのり)によって殺害された。尊氏は直義党の処置を怒り、諸将も2派に分かれて対立するに至った。こうして、直義と師直との対立抗争に端を発した観応の擾乱は、ついに尊氏・義詮派と直義・直冬党との全面的な対立へと発展し、8月、直義は北国へと逃走した。直義は北国から関東へと逃れたが、尊氏は直義討伐軍を率いて追撃し、1352年(正平7・文和1)1月には鎌倉へ入り、翌月、直義を毒殺した。尊氏は以後1年有半を関東で過ごすが、それは、新田義興(よしおき)の挙兵によって混乱した東国の政情を回復せんがための日々であった。尊氏が鎌倉より京都に帰ったのは翌年9月のことであった。1355年(正平10・文和4)正月から3月にかけての直冬党の京都進攻を退けたのち、尊氏・義詮派はその勢力をようやく確立し、翌年1月には越前の斯波高経(しばたかつね)も復帰し、室町幕府は、観応の擾乱による痛手を回復するに至った。58年(正平13・延文3)尊氏は九州への遠征を計画した。それは、菊池氏に擁立された懐良親王の南軍が、博多(はかた)に攻め入るなどして勢力を強化しつつある情況を一挙に打開せんがためであった。しかし, 背中に腫物ができる病気にかかり、この計画を果たすまもなく、この年4月30日、京都二条万里小路(までのこうじ)邸で死去した。法名は仁山妙義。等持院殿。墓所は京都・等持院にある。


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