田中正造

出典: Jinkawiki

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出身・主な経歴

明治期の政治家、社会運動家。下野国安蘇郡小中村(栃木県佐野市小中町)の名主富蔵の長男として生まれる。17歳で小中村名主に選ばれ、主家六角家の苛政に反抗し、改革を試み投獄される。維新後の1870年(明治3)上京し、江刺県(岩手県)の属吏となり、花輪分局に勤務。翌年上役殺害の嫌疑を受けて投獄され、74年ようやく無罪釈放となり帰郷。この間『西国立志編』などを読み、西欧思想に触れる。79年『栃木新聞』を創刊、国会開設の急務を説く。翌年安蘇郡選出の県会議員となり、以後90年衆議院議員に選出されるまで在職、86年からは議長を務めた。この間、80年安蘇郡に民権結社中節社を組織し、国会開設建白書を元老院に提出、また嚶鳴(おうめい)社員を招き各地に演説会を開き、民権思想の普及に努めた。翌年の自由党結成大会に出席し、都市知識人と地方有志の結合による一大立憲政党の結成を説いたがいれられず、結局、翌82年立憲改進党に入党、栃木県に全国有数の改進党勢力を築いた。84年県令三島通庸(みちつね)の土木政策に反対し一時投獄される。90年の第1回総選挙に栃木三区(安蘇、足利)から衆議院議員に当選、以後1901年(明治34)まで毎回当選を果たす。この間、独自の憲法解釈をもって藩閥政府を批判。

足尾銅山鉱毒事件

1891年の第二議会では当時顕在化した渡良瀬川沿岸の足尾銅山鉱毒被害を取り上げ、政府に質問書を提出、以後一貫してこの問題を追及。96年には群馬県渡瀬村雲龍寺に栃木・群馬両県鉱毒事務所を設け、ついで東京事務所も設置、足尾銅山鉱業停止の要求を掲げて、被害民を組織し、議会での質問演説で集中的にこの問題を取り上げ、新聞社などに働きかけ世論の喚起に努めた。1900年の第4回被害民大挙請願を憲兵・警官が抜剣、暴行して阻止した川俣事件が起こると、議会で「亡国演説」を行い、政府の責任を激しく追及するとともに、憲政本党を脱党して、自己の立場が党派的利害に出るものでないことを明らかにした。それ以前から議会、政党に絶望しつつあった田中は、01年10月議員を辞職、同年12月には天皇に直訴を行い、社会に衝撃を与えた。この事件を契機に、ジャーナリズム、学生、キリスト教徒、仏教徒らの被害民支持は高まった。しかし、翌02年内閣に設置の鉱毒調査委員会は、鉱毒問題の根本解決を避けて谷中村に貯水池を設けて渡良瀬川の治水を図るという計画をたてた。04年田中は水没の危機にさらされた谷中村に居を移し、谷中村強制買収に反対した。07年栃木県は谷中残留16戸を強制破壊したが、田中らは「谷中村復活」によって日本を亡国の淵から救済することを唱えて最後まで抵抗した。その抵抗は「破憲破道」(憲法破壊、人道破壊)に対し憲法を抵抗のよりどころとし、キリスト教の人道主義に基づくものであった。しかし谷中村復活を果たさないまま、大正2年9月4日、胃癌のため没した。その遺骨は、佐野の惣宗寺をはじめ、谷中残留民の住む藤岡町(田中霊祠)、生地の佐野市小中町など五か所に分骨埋葬されている。


参考文献

1、日本史小辞典  山川出版社    2、日本史の全貌  青春出版社

3、NPO法人足尾銅山鉱毒事件田中正造記念館  http://www.cnet-ga.ne.jp/syozou/


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