大久保利通
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2009年1月29日 (木) 18:44の版
幕末の動き
幕末から明治初期に活躍した政治家であり、木戸孝允・西郷隆盛とあわせて、「明治維新の三傑」と呼ばれている。
江戸時代末期の若年は、薩摩藩尊王攘夷グループのリーダーとして、1859(安政6)年、大老井伊直弼襲撃を計画したが、未遂に終わる。しかしこれを機に、薩摩藩主の島津久光の側近に抜擢され、公武合体論に転向する。1862年、島津久光の公武合体・幕政改革運動に参加し、一橋慶喜を将軍後見職につけ、松平慶永を政治総裁職につける。
1864年、幕府と薩摩の関係が悪くなると、西郷隆盛と組んで反幕運動を展開し、幕府を追い詰める。さらに1868年、岩倉具視と連携をして、王政復古を実施、明治政府を成立させる。
版籍奉還
明治政府を樹立させると、まずは木戸孝允と版籍奉還を推進する。 1868年、幕政改革として藩士を一律に「士族」と称することとし、藩主と藩士との君主・主従関係を制度から廃止した。これにより藩の実態は急激に変化し、近代的な集権国家への移行を進めていった。
大久保利通・木戸孝允ら明治政府が目指したのは、明治政府を幹とし、藩や県が幹から伸びる枝であるような、中央集権国家の一刻も早い創立であった。 1869年6月17日についに版籍奉還が実現する。