徳川家治
出典: Jinkawiki
2009年1月29日 (木) 18:56の版
徳川 家治(とくがわ いえはる、元文2年5月22日 (旧暦)|5月22日(1737年6月20日) - 天明6年8月25日 (旧暦)|8月25日(1786年9月17日)、将軍在任1760年 - 1786年)は、日本の武士・江戸時代の徳川幕府第10代征夷大将軍|将軍である。第9代将軍徳川家重|家重の長男で、母は側室の梅渓通条の娘(至心院、幸子、お幸の方)。幼名は竹千代。
生涯
江戸城に生まれる。幼少時よりその聡明さから、八代将軍であった祖父の徳川吉宗|吉宗の期待を一心に受け寵愛されて育った。家治は学芸の才能に恵まれ書画を得意とし、宝暦10年(1760年)に将軍職を継承し、父の家重の遺言に従い田沼意次を側用人に重用し、老中の松平武元らと共に政治に励んでいたが、意次が老中になると、政治を田沼意次|意次にまかせ好きな将棋などの趣味に没頭することが多く、結局祖父の期待には報えなかった。
意次は印旛沼・手賀沼干拓を実施し、蝦夷地開発や対ロシア貿易を計画するなどを実施する。安永8年(1779年)、家治の世子徳川家基|家基が18歳で急死したため、天明元年(1781年)に一橋家当主徳川治済の長男豊千代(後の第11代将軍徳川家斉|家斉)を自らの養子とした。
天明6年(1786年)のその死は反田沼派によって直ちには公表されず、田沼が失脚した後の9月8日 (旧暦)|9月8日(新暦9月29日)になって発葬された。また家治は、意次の差し出した薬を飲んだ直後に危篤に陥り死去した。無論、家治を暗殺しても意次に益するところは何一つ無いはずなのだが、それでも意次が毒を盛ったのではないかという噂が流れ、反田沼派の策謀により田沼意次は失脚した。
墓所は東京都台東区上野の寛永寺。
官歴
- 寛保元年(1741年)
- 8月12日 (旧暦)|8月12日:元服し、家治と名乗る。従二位大納言|権大納言に叙任
- 宝暦10年(1760年)
- 2月4日 (旧暦)|2月4日:右近衛大将を兼任
- 9月2日 (旧暦)|9月2日:正二位内大臣に昇叙転任し、右近衛大将の兼任如元。併せて征夷大将軍・源氏長者宣下
- 安永9年(1780年)
- 9月4日 (旧暦)|9月4日:右大臣に転任。右近衛大将の兼任如元
- 天明6年(1786年)
- 9月8日 (旧暦)|9月8日:薨去
- 9月22日 (旧暦)|9月22日:贈正一位太政大臣。
人物
家治は新しい将棋用語を考案し(例えば右上からいろはにほへとちりぬるをなどと呼んだ)、著作も著している。対局中に難局の場面で、待ったをして、駒を元に戻したとも伝えられている。