吉田茂

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吉田 茂

1878年9月22日 - 1967年10月20日 日本の外交官・政治家。第45代・第48代・第49代・第50代・第51代内閣総理大臣(在任期間・1946年5月22日 - 1947年5月24日、1948年10月15日 - 1954年12月10日)


外務大臣。衆議院議員(当選7回)。貴族院議員(勅選)。従一位・大勲位。皇學館大学総長、二松學舍大学舎長。 東京都生まれ、東大卒業の学歴を持つ。前代未聞の5回の任命を受け、当時の改革・政策を促進させた戦後の日本に多大な影響を及ぼした重要な人物である。


終戦後の1945年9月、東久邇宮内閣の外務大臣に就任。 11月、幣原内閣の外務大臣に就任。12月、貴族院議員に勅選される。 1946年、自由党総裁鳩山一郎の公職追放にともなう後任総裁への就任を受諾し、首相に就任した。(第1次吉田内閣) 大日本帝国憲法下の天皇組閣大命による最後の首相であり、選挙を経ていない非衆議院議員の首相も吉田が最後である。また、父が公選議員であった世襲政治家が首相になったのも吉田が初めてである。


1947年4月、日本国憲法の公布に伴う第23回総選挙では、日本国憲法第67条第1項において国会議員であることが首相の要件とされ、また貴族院が廃止されたため、実父・竹内綱及び実兄竹内明太郎の選挙区であった高知県全県区から立候補した。自身はトップ当選したが、与党の日本自由党は日本社会党に第一党を奪われた。社会党の西尾末広は第一党として与党に参加するが、社会党からは首相を出さず吉田続投を企図していた。しかし、吉田は、首相は第一党から出すべきという憲政の常道を強調し、また社会党左派の「容共」を嫌い翌月総辞職した。こうして初の社会党政権である片山内閣が成立したが長続きせず、続く芦田内閣も1948年、昭電疑獄により瓦解した。このときGHQ民政局による山崎猛幹事長首班工作が失敗し、これを受けて吉田は第2次内閣を組織し、直後の総選挙で大勝し、戦後日本政治史上特筆すべき第3次吉田内閣を発足させた。


直後の朝鮮戦争勃発により内外で高まった講和促進機運により、昭和26年(1951年)9月8日、サンフランシスコ平和条約を締結した。また同日、日米安全保障条約を結んだ。その他にも、警察予備隊の組織、保安隊の組織、MSA協定の締結と自衛隊の創設を行った。造船疑獄では、犬養健法務大臣を通して、検事総長に佐藤栄作幹事長の逮捕を延期させ、結局逮捕はされなかった。これが戦後唯一の指揮権発動である。これについては、新聞等に多大なる批判を浴びせられた。 昭和29年(1954年)12月7日に内閣総辞職。翌日、自由党総裁を辞任する。日本で5回にわたって内閣総理大臣に任命されたのは吉田茂ただ1人である。


参考文献 佐々木隆璽著 『占領・復興期の日米関係』 山中出版社 2008年発行 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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