鳩山一郎

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鳩山 一郎

1883年1月1日 - 1959年3月7日


日本の政治家、弁護士。第52・53・54代内閣総理大臣。正二位 大勲位。

初代自民党総裁であり、日本国とソビエト社会主義共和国連邦との二国間の国交回復を成し遂げた内閣総理大臣でもある。


戦前から政友会に属し、犬養毅・齋藤実両内閣で文相、「滝川事件」を起こした。1945年、日本自由党を結成し、総裁となった。翌年、1946年の総選挙で自由党が第一党になる。組閣を始めていたところで(首相就任を目前にして)戦前の統帥権問題を発生させたこと等をGHQが問題視したため、公職追放となる。また、追放解除を目前に脳梗塞で倒れた。こうして、吉田茂に首相の座を奪われる。1954年分派自由党を率いて改進党を合併し日本民主党を結成、総裁になり、同年12月、吉田茂の退陣後、鳩山内閣を樹立した。1955年総選挙で第一党になったが、過半数に至らず、同年11月、自由党と保守合併を行い、自由民主党を組織、初代総裁となった。1956年、日ソ共同宣言に署名し、ソ連と国交を回復、かつ国連に加盟した。


吉田のアメリカ中心の外交から転換し、懸案であった日ソ国交回復を成し遂げた。盟友で寝業師と言われた三木武吉の尽力により日本民主党・自由党の保守合同を成し遂げ、自民党を結成。これにより保守勢力と革新(この時点では社会主義)勢力を軸とした55年体制が確立された。


日本の独立確保という視点から再軍備を唱え、改憲を公約にしたが、与党で改憲に必要な三分の二議席には達しなかった。また、改憲を試みるために小選挙区制 中心の選挙制度の導入を図ったが、野党からはもちろん、与党内からも選挙区割りが旧民主党系寄りという反対があり、「ゲリマンダーならぬハトマンダー」と批判され、実現には至らなかった。


参考文献 佐々木隆璽著 『占領・復興期の日米関係』 山中出版社 2008年発行 歴史学研究会編 『日本同時代史』 青木書店 1990年発行 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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