徳川家茂

出典: Jinkawiki

(版間での差分)

2009年1月29日 (木) 19:29の版

徳川 家茂とくがわ いえもち)は、紀伊国紀州藩の第13代藩主。江戸幕府第14代征夷大将軍。初名は徳川 慶福(とくがわ よしとみ)。

徳川斉順の長男であるが、父は家茂が生まれる前に薨去した。祖父は徳川家斉、祖母は妙操院。正室は孝明天皇の妹・和宮親子内親王(静観院宮)。関係が囁かれた女性がいたとの噂もあったが側室は持たなかった。4歳で紀州藩主となったが、嗣子の無い第13代将軍・徳川家定に最も近い血筋の人物であるとして、井伊直弼ら南紀派の支持を受けて13歳で第14代将軍となる。血筋だけでなく英明な風格を備えており、勝海舟をはじめ幕臣からの信望厚く、忠誠を集めたと言われている。


目次

生涯

政略結婚ではあるが、和宮に対してたびたび贈り物をするなど非常に気を遣い、2人の関係は良好だったとされる。

1858年、将軍となった。家茂はこのとき13歳という若年であったが、第11代将軍・徳川家斉の孫に当たるという経緯から、慶喜を抑えて将軍に就任したのである。とはいえ、1862年までは田安慶頼が、その後は一橋慶喜が「将軍後見職」についていたため、その権力は抑制されたものにならざるを得なかった。

1863年には229年ぶりとなる上洛を果たし、義兄に当たる孝明天皇に尊皇攘夷を誓った。1865年、兵庫開港を決定した老中・阿部正外らが朝廷によって処罰されると、その報復としてか、自ら将軍職の辞意を朝廷に上申している。このとき孝明天皇は大いに驚き、慌てて辞意を取り下げさせ、その後の幕府人事への干渉をしないと約束したという。

1866年、家茂は第2次長州征伐の途上大坂城で病に倒た。この知らせを聞いた孝明天皇は、典薬寮の医師である高階経由と福井貞憲の二人を大坂へ派遣し、その治療に当たらせた。しかしその甲斐なく、家茂は大坂城にて薨去した。あまりに若すぎるその死は、一説に毒殺とも言われている。

増上寺の徳川将軍家墓地改葬の際に徳川家の人々の遺骨の調査を行った鈴木尚の著書・『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』によれば、家茂は死亡した時点では月代を剃っておらず、若々しく豊富な髪の持ち主であったという。また家茂の歯の虫歯の度合いはひどく、残存する31本の歯の内30本が虫歯にかかっていた。記録などから総合するに、家茂はもともと歯のエナメル質が極端に薄い体質であったが、大の甘党でもあった。その虫歯が家茂の体力を弱め、脚気衝心、さらには医師の誤診(脚気をリウマチと誤診した)という形で家茂の命を奪ったのではないか、と指摘している。

また墓地改葬の際に、和宮の墓の中から家茂と思われる男性の肖像写真が発見された。これまで家茂は義兄の孝明天皇に倣い写真は撮影していなかったとされていた。死の直前に大阪で撮影されたものと推定され、江戸にいる和宮に贈ったとみられる。発見の翌日に再度写真を検証しようとすると画像は失われており、そこにはガラス板があるのみだった。ただ、この写真の男性は家茂ではなく、和宮の最初の婚約者であった有栖川宮熾仁親王ではなかったかとする説もある。

鈴木が中心となってまとめた『増上寺徳川将軍家墓とその遺品・遺体』によると、家茂の血液型はA型である。

評価

家茂はわずか20年の生涯であったが、幕末の動乱期の中をその若さで潜り抜けていることは高く評価されている。勝海舟からは、「若さゆえに時代に翻弄されたが、もう少し長く生きていれば、英邁な君主として名を残したかもしれない。武勇にも優れていた人物であった」と評価されている。

また、幕臣からも信望が厚かったと言われている。

エピソード

  • 公武合体の具体策として皇女和宮を御台所に迎えた家茂であったが、和宮に対し非常に気を使い、あれこれ贈り物をし、お付の女中にまで物を配ったという。後に、家茂は松平慶永に「公武の間柄のためには和宮様と睦まじくなることが大切だと思い努力した。」と語ったとされている。
  • 勝海舟は順動丸に家茂を乗せ大阪湾を一巡した時に家茂を評し、「将軍家、いまだ御若年といえども、真に英主の御風あり」と書き残している。

年表(官職位階履歴)

※日付=旧暦

  • 1846年(弘化3)5月8日、父・徳川斉順が亡くなる。
  • 1846年(弘化3)閏5月24日、徳川斉順の長男として江戸の紀州藩邸(東京都港区)に生まれる。
  • 1847年(弘化4)4月22日、紀伊国紀州藩主徳川斉彊の養子となる。
  • 1849年(嘉永2)閏4月2日、紀伊国紀州藩主になる。
  • 1851年(嘉永4)10月9日、元服。慶福と名乗り、従三位左近衛権中将に叙任。
  • 1853年(嘉永6)6月22日、第12代将軍徳川家慶病死。10月23日、徳川家定が第13代将軍に就任。
  • 1858年(安政5) - 一橋慶喜(徳川慶喜)とともに将軍家定の世継ぎ候補となり、慶福を推す井伊直弼が大老に就き、5月1日、将軍後継者となる。10月24日、正二位権大納言に昇叙転任。10月25日、内大臣に転任し、右近衛大将を兼任。併せて征夷大将軍・源氏長者宣下。名を家茂と改めた。
  • 1862年(文久2)2月11日、仁孝天皇皇女で孝明天皇の皇妹、和宮と結婚(公武合体策の一つ)。
  • 1863年(文久3)3月4日、朝廷の攘夷実施の求めに応じて、第3代将軍・徳川家光以来となる上洛。
  • 1864年(元治元)1月21日、従一位に昇叙し、右大臣に転任。右近衛大将の兼任如元。
  • 1866年 6月7日、第2次長州征伐(幕長戦争)を開始するが、7月20日、大坂城で病死、享年20。贈太政大臣。

参考文献


  人間科学大事典

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