徳川家茂

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-'''徳川 家茂''''''とくがわ いえもち''')は、紀伊国紀州藩の第13代藩主。江戸幕府第14代征夷大将軍。初名は徳川 慶福(とくがわ よしとみ)。+'''徳川 家茂'''(('''とくがわ いえもち''')弘化3年閏5月24日(旧暦)(1846年7月17日) - 慶応2年7月20日(旧暦)(1866年8月29日))は、紀伊国紀州藩の第13代藩主。江戸幕府第14代征夷大将軍。初名は徳川 慶福(とくがわ よしとみ)。
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 + 13代 慶福(よしとみ)(後の14代将軍 家茂(いえもち)
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 + 弘化3年(1846)5月24日斉順(なりゆき)卿嫡子として江戸屋敷で生まれる、斉疆(なりかつ)卿より戴き幼名は菊千代と称す。弘化4年(1847)4月22日斉疆の養子となる。
 + 嘉永2年(1849)3月27日憲章院薨去につき50日の御遠慮を致したが4月2日公方様より御許しが出て、4才にて紀州徳川家を襲職嗣する。幕府の命にて松平頼学・水野忠央・安藤直祐・公方にて国政を司る、嘉永4年(1851)10月9日元服して名を賜り、慶福と改め従三位左近衛権中将に任叙す。嘉永6年(1853)4月18日湊御殿諸役所を城内へ引移す。世はまさに騒乱となり西洋流大砲鋳造、大船製造、中軍船を製造す。また友ヶ島御台場を建築し外敵防備を行う。
 + 安政5年13代将軍家定の養子となり、同10月25日11才で名を家茂と改め14代将軍となる。文久2年(1862)2月11日第120代仁孝天皇姫宮で和宮のち静寛院宮と御婚礼。御台所を御迎えしたが幕末の動乱期故、慶応2年(1866)8月20日長州征伐の途中僅21才で薨去。
-徳川斉順の長男であるが、父は家茂が生まれる前に薨去した。祖父は徳川家斉、祖母は妙操院。正室は孝明天皇の妹・和宮親子内親王(静観院宮)。関係が囁かれた女性がいたとの噂もあったが側室は持たなかった。4歳で紀州藩主となったが、嗣子の無い第13代将軍・徳川家定に最も近い血筋の人物であるとして、井伊直弼ら南紀派の支持を受けて13歳で第14代将軍となる。血筋だけでなく英明な風格を備えており、勝海舟をはじめ幕臣からの信望厚く、忠誠を集めたと言われている。 
== 経歴 == == 経歴 ==
-政略結婚ではあるが、和宮に対してたびたび贈り物をするなど非常に気を遣い、2人の関係は良好だったとされる。+文久2年(1862年)に公武合体策の一環として和宮と結婚。政略結婚ではあるが、和宮に対してたびたび贈り物をするなど非常に気を遣い、2人の関係は良好であった。徳川家歴代の将軍と正室の中で最も夫婦仲がよいといえたのは家茂・和宮であったといわれたほどである。
1858年、将軍となった。家茂はこのとき13歳という若年であったが、第11代将軍・徳川家斉の孫に当たるという経緯から、慶喜を抑えて将軍に就任したのである。とはいえ、1862年までは田安慶頼が、その後は一橋慶喜が「将軍後見職」についていたため、その権力は抑制されたものにならざるを得なかった。 1858年、将軍となった。家茂はこのとき13歳という若年であったが、第11代将軍・徳川家斉の孫に当たるという経緯から、慶喜を抑えて将軍に就任したのである。とはいえ、1862年までは田安慶頼が、その後は一橋慶喜が「将軍後見職」についていたため、その権力は抑制されたものにならざるを得なかった。
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*公武合体の具体策として皇女和宮を御台所に迎えた家茂であったが、和宮に対し非常に気を使い、あれこれ贈り物をし、お付の女中にまで物を配ったという。後に、家茂は松平慶永に「公武の間柄のためには和宮様と睦まじくなることが大切だと思い努力した。」と語ったとされている。 *公武合体の具体策として皇女和宮を御台所に迎えた家茂であったが、和宮に対し非常に気を使い、あれこれ贈り物をし、お付の女中にまで物を配ったという。後に、家茂は松平慶永に「公武の間柄のためには和宮様と睦まじくなることが大切だと思い努力した。」と語ったとされている。
*勝海舟は順動丸に家茂を乗せ大阪湾を一巡した時に家茂を評し、「将軍家、いまだ御若年といえども、真に英主の御風あり」と書き残している。 *勝海舟は順動丸に家茂を乗せ大阪湾を一巡した時に家茂を評し、「将軍家、いまだ御若年といえども、真に英主の御風あり」と書き残している。
 +*墓地改葬の際に、和宮の墓の中から家茂と思われる男性の肖像写真が発見された。これまで家茂は義兄の孝明天皇に倣い写真は撮影していなかったとされていた。死の直前に大阪で撮影されたものと推定され、江戸にいる和宮に贈ったとみられる。発見の翌日に再度写真を検証しようとすると画像は失われており、そこにはガラス板があるのみだった。
 +*幼少の頃は池の魚や籠の鳥を可愛がるのを楽しみとしていた。しかし13歳の時に将軍として元服すると、それらの楽しみを捨てて文武両道を修めるように努めた。病弱な体なのにささやかな楽しみすら捨て、良い将軍であろうと心がけていた姿は幕臣たちを当時も没後も感激させたという。
 +*幕臣戸川播磨守安清は書の達人として知られた。そのため70歳を過ぎた老人ながら、推されて家茂の習字の先生を務めていた。ある時家茂に教えていた最中に、突然家茂が墨を摺るための水を安清の頭の上からざぶりとかけ、手を打って笑い、「あとは明日にしよう」と言ってその場を出て行ってしまった。同席していた側近たちがいつもの家茂にも似ぬことをすると嘆いていると、当の安清が泣いていた。家茂の振る舞いを情けなく思ってのことかと尋ねると、実は老齢のため、ふとしたはずみで失禁してしまったと安清は言った。当時の習慣として将軍に教えている真っ最中に尿を漏らしたとなると厳罰は免れないので、それを察した家茂は水をかけるいたずらでその失敗を隠し、「明日も出仕するように」と発言することで不問に処することを表明したのである。その細やかな配慮に感激して泣いているのだと答えたという(安清の親戚だった戸川残花が「幕末小史」の中に記している)。
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==年表(官職位階履歴)== ==年表(官職位階履歴)==
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* 岡谷 繁実 (著) 安藤 英男  『徳川将軍の人間学 』 * 岡谷 繁実 (著) 安藤 英男  『徳川将軍の人間学 』
* 篠田 達明 『徳川将軍家十五代のカルテ』 (新潮新書) 2005 * 篠田 達明 『徳川将軍家十五代のカルテ』 (新潮新書) 2005
 +* 鈴木尚  『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』 東京大学出版会 1985年

2009年1月29日 (木) 20:50の版

徳川 家茂((とくがわ いえもち)弘化3年閏5月24日(旧暦)(1846年7月17日) - 慶応2年7月20日(旧暦)(1866年8月29日))は、紀伊国紀州藩の第13代藩主。江戸幕府第14代征夷大将軍。初名は徳川 慶福(とくがわ よしとみ)。

 13代 慶福(よしとみ)(後の14代将軍 家茂(いえもち)

 弘化3年(1846)5月24日斉順(なりゆき)卿嫡子として江戸屋敷で生まれる、斉疆(なりかつ)卿より戴き幼名は菊千代と称す。弘化4年(1847)4月22日斉疆の養子となる。  嘉永2年(1849)3月27日憲章院薨去につき50日の御遠慮を致したが4月2日公方様より御許しが出て、4才にて紀州徳川家を襲職嗣する。幕府の命にて松平頼学・水野忠央・安藤直祐・公方にて国政を司る、嘉永4年(1851)10月9日元服して名を賜り、慶福と改め従三位左近衛権中将に任叙す。嘉永6年(1853)4月18日湊御殿諸役所を城内へ引移す。世はまさに騒乱となり西洋流大砲鋳造、大船製造、中軍船を製造す。また友ヶ島御台場を建築し外敵防備を行う。  安政5年13代将軍家定の養子となり、同10月25日11才で名を家茂と改め14代将軍となる。文久2年(1862)2月11日第120代仁孝天皇姫宮で和宮のち静寛院宮と御婚礼。御台所を御迎えしたが幕末の動乱期故、慶応2年(1866)8月20日長州征伐の途中僅21才で薨去。


目次

経歴

文久2年(1862年)に公武合体策の一環として和宮と結婚。政略結婚ではあるが、和宮に対してたびたび贈り物をするなど非常に気を遣い、2人の関係は良好であった。徳川家歴代の将軍と正室の中で最も夫婦仲がよいといえたのは家茂・和宮であったといわれたほどである。

1858年、将軍となった。家茂はこのとき13歳という若年であったが、第11代将軍・徳川家斉の孫に当たるという経緯から、慶喜を抑えて将軍に就任したのである。とはいえ、1862年までは田安慶頼が、その後は一橋慶喜が「将軍後見職」についていたため、その権力は抑制されたものにならざるを得なかった。

1863年には229年ぶりとなる上洛を果たし、義兄に当たる孝明天皇に尊皇攘夷を誓った。1865年、兵庫開港を決定した老中・阿部正外らが朝廷によって処罰されると、その報復としてか、自ら将軍職の辞意を朝廷に上申している。このとき孝明天皇は大いに驚き、慌てて辞意を取り下げさせ、その後の幕府人事への干渉をしないと約束したという。

1866年、家茂は第2次長州征伐の途上大坂城で病に倒た。この知らせを聞いた孝明天皇は、典薬寮の医師である高階経由と福井貞憲の二人を大坂へ派遣し、その治療に当たらせた。しかしその甲斐なく、家茂は大坂城にて薨去した。あまりに若すぎるその死は、一説に毒殺とも言われている。

増上寺の徳川将軍家墓地改葬の際に徳川家の人々の遺骨の調査を行った鈴木尚の著書・『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』によれば、家茂は死亡した時点では月代を剃っておらず、若々しく豊富な髪の持ち主であったという。また家茂の歯の虫歯の度合いはひどく、残存する31本の歯の内30本が虫歯にかかっていた。記録などから総合するに、家茂はもともと歯のエナメル質が極端に薄い体質であったが、大の甘党でもあった。その虫歯が家茂の体力を弱め、脚気衝心、さらには医師の誤診(脚気をリウマチと誤診した)という形で家茂の命を奪ったのではないか、と指摘している。

また墓地改葬の際に、和宮の墓の中から家茂と思われる男性の肖像写真が発見された。これまで家茂は義兄の孝明天皇に倣い写真は撮影していなかったとされていた。死の直前に大阪で撮影されたものと推定され、江戸にいる和宮に贈ったとみられる。発見の翌日に再度写真を検証しようとすると画像は失われており、そこにはガラス板があるのみだった。ただ、この写真の男性は家茂ではなく、和宮の最初の婚約者であった有栖川宮熾仁親王ではなかったかとする説もある。

鈴木が中心となってまとめた『増上寺徳川将軍家墓とその遺品・遺体』によると、家茂の血液型はA型である。

評価

家茂はわずか20年の生涯であったが、幕末の動乱期の中をその若さで潜り抜けていることは高く評価されている。勝海舟からは、「若さゆえに時代に翻弄されたが、もう少し長く生きていれば、英邁な君主として名を残したかもしれない。武勇にも優れていた人物であった」と評価されている。

また、幕臣からも信望が厚かったと言われている。

エピソード

  • 公武合体の具体策として皇女和宮を御台所に迎えた家茂であったが、和宮に対し非常に気を使い、あれこれ贈り物をし、お付の女中にまで物を配ったという。後に、家茂は松平慶永に「公武の間柄のためには和宮様と睦まじくなることが大切だと思い努力した。」と語ったとされている。
  • 勝海舟は順動丸に家茂を乗せ大阪湾を一巡した時に家茂を評し、「将軍家、いまだ御若年といえども、真に英主の御風あり」と書き残している。
  • 墓地改葬の際に、和宮の墓の中から家茂と思われる男性の肖像写真が発見された。これまで家茂は義兄の孝明天皇に倣い写真は撮影していなかったとされていた。死の直前に大阪で撮影されたものと推定され、江戸にいる和宮に贈ったとみられる。発見の翌日に再度写真を検証しようとすると画像は失われており、そこにはガラス板があるのみだった。
  • 幼少の頃は池の魚や籠の鳥を可愛がるのを楽しみとしていた。しかし13歳の時に将軍として元服すると、それらの楽しみを捨てて文武両道を修めるように努めた。病弱な体なのにささやかな楽しみすら捨て、良い将軍であろうと心がけていた姿は幕臣たちを当時も没後も感激させたという。
  • 幕臣戸川播磨守安清は書の達人として知られた。そのため70歳を過ぎた老人ながら、推されて家茂の習字の先生を務めていた。ある時家茂に教えていた最中に、突然家茂が墨を摺るための水を安清の頭の上からざぶりとかけ、手を打って笑い、「あとは明日にしよう」と言ってその場を出て行ってしまった。同席していた側近たちがいつもの家茂にも似ぬことをすると嘆いていると、当の安清が泣いていた。家茂の振る舞いを情けなく思ってのことかと尋ねると、実は老齢のため、ふとしたはずみで失禁してしまったと安清は言った。当時の習慣として将軍に教えている真っ最中に尿を漏らしたとなると厳罰は免れないので、それを察した家茂は水をかけるいたずらでその失敗を隠し、「明日も出仕するように」と発言することで不問に処することを表明したのである。その細やかな配慮に感激して泣いているのだと答えたという(安清の親戚だった戸川残花が「幕末小史」の中に記している)。


年表(官職位階履歴)

※日付=旧暦

  • 1846年(弘化3)5月8日、父・徳川斉順が亡くなる。
  • 1846年(弘化3)閏5月24日、徳川斉順の長男として江戸の紀州藩邸(東京都港区)に生まれる。
  • 1847年(弘化4)4月22日、紀伊国紀州藩主徳川斉彊の養子となる。
  • 1849年(嘉永2)閏4月2日、紀伊国紀州藩主になる。
  • 1851年(嘉永4)10月9日、元服。慶福と名乗り、従三位左近衛権中将に叙任。
  • 1853年(嘉永6)6月22日、第12代将軍徳川家慶病死。10月23日、徳川家定が第13代将軍に就任。
  • 1858年(安政5) - 一橋慶喜(徳川慶喜)とともに将軍家定の世継ぎ候補となり、慶福を推す井伊直弼が大老に就き、5月1日、将軍後継者となる。10月24日、正二位権大納言に昇叙転任。10月25日、内大臣に転任し、右近衛大将を兼任。併せて征夷大将軍・源氏長者宣下。名を家茂と改めた。
  • 1862年(文久2)2月11日、仁孝天皇皇女で孝明天皇の皇妹、和宮と結婚(公武合体策の一つ)。
  • 1863年(文久3)3月4日、朝廷の攘夷実施の求めに応じて、第3代将軍・徳川家光以来となる上洛。
  • 1864年(元治元)1月21日、従一位に昇叙し、右大臣に転任。右近衛大将の兼任如元。
  • 1866年 6月7日、第2次長州征伐(幕長戦争)を開始するが、7月20日、大坂城で病死、享年20。贈太政大臣。

参考文献

  • 中江克己 『図説徳川将軍の「お家事情」』 PHP研究所  2007
  • 岡谷 繁実 (著) 安藤 英男  『徳川将軍の人間学 』
  • 篠田 達明 『徳川将軍家十五代のカルテ』 (新潮新書) 2005
  • 鈴木尚  『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』 東京大学出版会 1985年

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